ロバート・オッペンハイマー
概要
ロスアラモスで原爆の開発を率いた。戦後は水爆に反対し、赤狩りのなかで公職を追われる。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(2)
マンハッタン計画AD1942年8月 · 所長トリニティ実験AD1945年7月16日 · 開発を率いた本文
1904年4月22日、ニューヨークで生まれた。父はドイツから移民して布地の輸入で財を成したユダヤ系の商人、母は画家だった。マンハッタンの広いアパートには、ゴッホやセザンヌの絵が掛かっていた。少年は鉱物の収集に熱中し、12歳でニューヨークの鉱物学会に手紙を書いて、大人と思われて講演を頼まれたという。体が弱く、内気で、同年代の子どもとはなじめなかった。

ハーヴァード大学に入ると、化学を専攻しながら文学や哲学、語学を貪るように学び、3年で最優等の成績を収めて卒業した。1925年、イギリスのケンブリッジ大学に留学したが、実験が苦手で、深く落ち込んだ。指導教員の机に毒を塗ったリンゴを置いたという話が伝わっているが、真偽ははっきりしない。翌年、ドイツのゲッティンゲン大学に移ってマックス・ボルンのもとで量子力学の理論を学ぶと、才能が開いた。1927年に博士号を取り、ボルンとの共同論文は、分子を扱う計算の基本的な方法として今も使われている。
帰国後は、カリフォルニア大学バークレー校とカリフォルニア工科大学を掛け持ちして教えた。アメリカにはまだ理論物理学の伝統がほとんど無く、彼の周りに集まった学生たちが、アメリカの理論物理学の最初の世代になった。1939年には、重い星が自らの重さでつぶれていく過程を計算した論文を書いている。のちにブラックホールと呼ばれるものの理論の先駆けだった。サンスクリット語を独学で学び、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を原語で読んだ。

1930年代、世界恐慌とファシズムの台頭のなかで、彼は政治に目覚めた。スペイン内戦の共和派を支援する集会に寄付をし、共産党員の知人や恋人を持った。妻のキティも、かつて共産党に属し、スペインで戦死した党員の未亡人だった。彼自身が党員になったことは無いとされるが、この交友関係がのちに彼を追い詰める。
1939年、ウランの核分裂が発見され、ナチス・ドイツが原子爆弾を作るのではないかという恐れが広がった。アインシュタインは大統領に手紙を送り、研究を急ぐよう訴えた。1942年、アメリカは原爆を作る巨大な計画を始めた(マンハッタン計画)。責任者の陸軍のグローヴス将軍は、爆弾を設計する研究所の長にオッペンハイマーを選んだ。ノーベル賞も無く、大きな組織を率いた経験も無く、左翼との交友から保安担当者は反対した。それでもグローヴスは、彼の頭脳と、野心と、人を惹きつける力に賭けた。

研究所の場所に選ばれたのは、ニューメキシコ州の山の上、ロスアラモスだった。若いころに彼が馬で旅し、愛した土地である。何もない台地に、全米から、そして亡命してきたヨーロッパの物理学者たちが集められた。最初は数百人だった研究所は、数千人の町になった。オッペンハイマーは、すべての研究の細部を理解し、対立する科学者と軍人の間を取り持ち、議論をまとめた。かつての内気な理論家は、誰もが驚くほどの指導者になっていた。
1945年7月16日の夜明け、ニューメキシコの砂漠で、人類最初の核爆発が起きた(トリニティ実験)。のちに彼は、そのとき『バガヴァッド・ギーター』の一節、我は死なり、世界の破壊者なり、を思い浮かべた、と語っている。ドイツはすでに降伏していた。3週間後、原爆は広島と長崎に落とされた(広島・長崎への原爆投下)。その年のうちに、少なくとも20万人前後が死んだとされる。

戦後、彼は「原爆の父」として英雄になり、雑誌の表紙を飾った。だがトルーマン大統領に会ったとき、自分の手は血で汚れていると感じる、と言ったと伝えられる。大統領は激怒し、あの泣き虫の科学者を二度と連れてくるな、と言ったという。原子力委員会の科学顧問の長として、核兵器の国際管理を説き、1949年には、原爆の何百倍もの威力をもつ水素爆弾の開発に反対する答申をまとめた。ソ連が原爆の実験に成功した直後のことだった。政府は答申を退け、水爆の開発は進められた。
1954年、赤狩りの空気のなかで(ジョゼフ・マッカーシー)、原子力委員会は彼の機密情報を扱う資格を審査する聴聞会を開いた。持ち出されたのは、戦前の共産党員との交友と、戦時中のある事件での嘘、そして水爆への反対だった。水爆の推進者だった物理学者エドワード・テラーは、彼の判断は信用できないと証言した。委員会は、彼は忠実なアメリカ人ではあるが、資格は与えられないと結論づけた。国家の中枢から締め出されたのである。

その後は、プリンストン高等研究所の所長として過ごした。そこには晩年のアインシュタインもいた。1963年、ケネディ大統領の死の直後、後を継いだジョンソン大統領から、原子力の分野の栄誉であるエンリコ・フェルミ賞を受けた。名誉の回復のしるしと受け止められたが、資格は戻らなかった。
ヘビースモーカーだった彼は喉頭がんにかかり、1967年2月18日、プリンストンの自宅で死んだ。62歳だった。2022年、アメリカのエネルギー省は、1954年の決定は手続きに欠陥があったとして、これを取り消した。死から55年後のことだった。『サピエンス全史』は、科学者が国家の資金で兵器を作った典型として(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)、この計画を取り上げている。科学が国家と結びついたとき、科学者は何に責任を負うのか。彼の生涯は、その問いの象徴になった。