できごと

血清療法の確立

Discovery of Serum Therapy
AD1890年
重要度 4
大英帝国ロシア帝国グリーンランドオスマン帝国ドイツ帝国アラビアポルトガル帝国エジプトペルシアスウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア=ハンガリー帝国フランススペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国Algeria (FR)モロッコイタリアルーマニアブルガリアアイスランドギリシャデンマークセルビアボスニア・ヘルツェゴビナAD1890年ベルリン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1890年の版図を描いています(25勢力)。

概要

破傷風菌を純粋培養し、その毒素に対する抗体を持つ血清が病を治すことを示した。第1回ノーベル賞は共同研究者のベーリングだけが受けている。

場所

ベルリン
52.52°N 13.40°E · ドイツ

関わった人(1)

北里柴三郎AD1853年1月29日–AD1931年6月13日 · 研究

本文

19世紀の後半、病気の見方が大きく変わりつつあった。フランスのルイ・パスツールは、発酵や腐敗が微生物のはたらきだと示し、ドイツのロベルト・コッホは、炭疽、結核、コレラの原因となる細菌を次々に突き止めた。特定の細菌が、特定の病気を起こす。その菌を純粋に取り出して育て、動物にうつして同じ病気が起きることを確かめる。コッホが打ち立てたこの手順が、医学の新しい作法になった。

北里柴三郎は1853年、熊本の山あいの村に生まれた。熊本の医学校でオランダ人の軍医に学び、東京の医学校を出て内務省の衛生局に入る。1885年、ベルリンのコッホの研究所に留学した。日本から来た若者は、まもなく研究所で頭角を現していく。

エミール・フォン・ベーリング
エミール・フォン・ベーリングWikimedia Commons Fritz Schuhmann, Hofphotograph Bad Kissingen · Public domain

そのころ、破傷風は恐ろしい病気だった。土の中にいる菌が傷口から入り、全身の筋肉がこわばって痙攣し、多くは死に至る。原因の菌は見つかっていたが、純粋に育てることが誰にもできなかった。破傷風菌は、空気があると育たない。しかも、ほかの雑多な菌と混ざったかたちでしか増えない。

北里はこの二つの壁を、それぞれ破った。破傷風菌が熱に強い芽胞を作ることを利用し、混ざった培養物を加熱して、ほかの菌を殺した。そのうえで、酸素を除いて水素を満たした容器の中で育てる。そのために工夫した培養の器具は、形から「亀の子シャーレ」と呼ばれた。1889年、彼は破傷風菌の純粋培養に成功した。

北里柴三郎(1910年)
北里柴三郎Wikimedia Commons 北里研究所 · Public domain

培養できると、次が見えてくる。菌を動物に注射すると、菌は注射したところから広がらないのに、全身に痙攣が起こる。菌そのものではなく、菌が出す毒素が体を回って病気を起こしているのだ。北里は、菌を取り除いた培養液だけでも、同じ症状が出ることを確かめた。

次に彼は、ごく少量の毒素を動物に注射し、少しずつ量を増やしていった。すると動物は、本来なら死ぬはずの量の毒素にも耐えるようになる。その動物の血液から血球を除いた液体、つまり血清を取り、別の動物に注射すると、その動物も破傷風から守られた。さらに、すでに発病した動物にも効いた。血清の中に、毒素を打ち消すものができている。のちに抗体と呼ばれるものだった。

1890年12月、北里は同じ研究所のエミール・フォン・ベーリングと連名で、破傷風とジフテリアの免疫についての論文を発表した。その一週間後、ベーリングは単独で、ジフテリアの血清についての論文を出している。毒素に対する抗体を含んだ血清で病気を治す。血清療法の始まりだった。ジフテリアは子どもの命を多く奪う病気で、血清はやがて各地で使われ、多くの子どもを救った。

1901年、第1回のノーベル生理学・医学賞は、血清療法の業績、とくにジフテリアへの応用に対して、ベーリング一人に贈られた(ノーベル賞の始まり)。北里も候補に挙がっていたことが、のちに公開された記録で分かっている。共同研究者が外れた理由は明らかにされていない。ジフテリアの仕事がベーリングのものとみなされたためとも、日本人であることが不利に働いたとも言われるが、確かなことは言えない。

北里は1892年に帰国した。世界的な名声を得ていたが、国内では居場所が無かった。留学中、東京帝国大学の恩師が唱えた脚気の病原菌説を、誤りだと批判していたためで、大学の主流派から恩知らずと見られていた。手を差し伸べたのが福沢諭吉だった。東京の芝に持っていた土地を提供し、そこに私立の伝染病研究所が建てられた。

1894年、香港でペストが流行すると(第三次ペスト大流行)、北里は政府から派遣され、到着して数日でペスト菌を見つけたと報告した。同じころフランスのイェルサンも菌を見つけており、北里の報告にはほかの菌が混じっていた疑いがあるため、いまでは菌の発見はイェルサンの功績とされることが多い。研究所からはその後、赤痢菌を見つけた志賀潔らが育った。

伝染病研究所は、やがて国に寄付されて内務省の所管になった。ところが1914年、政府は研究所を文部省に移し、東京帝国大学の下に置くと決める。大学との確執を抱えていた北里は、相談もなく決まったこの移管に抗議して所長を辞めた。研究所の所員たちも、そろって辞職して北里に従った。彼は私財を投じて新たに北里研究所を作り、のちには福沢の恩に報いるため、慶応義塾の医学部の創設に力を尽くした。

1931年に亡くなるまで、北里は日本の医学界の柱であり続けた。破傷風の血清療法そのものは、いまも使われている。2024年からは、千円札の肖像になっている。

同じ時代のできごと

金庫と破る者AD1870年代第1バチカン公会議と教皇不可謬AD1870年7月18日日本の靴AD1870年(明治3年)包囲された都市からAD1870年人力車AD1870年スダン(セダン)の戦いAD1870年9月1日横浜毎日新聞の創刊AD1871年1月28日角底の紙袋AD1871年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1890年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →