人物

ウィリアム・オートレッド

William Oughtred
AD1574年3月5日 – AD1660年6月30日(享年86)
イングランド重要度 3

概要

イートン校の書記の子。ケンブリッジで学び、生涯を英国国教会の教区司祭として過ごした。数学は職業ではなく、志願者に無償で教えた。ウォリス、レン、そして多くの数学者が彼の弟子である。1631年の『数学の鍵』は簡潔すぎて難解とされたが、長く読まれた。掛け算の記号×と、比を表す:: は彼が導入したものである。1622年頃、対数目盛の尺を二本重ねて滑らせる計算尺を考案した。八十六歳で死んだ。

関わったできごと(1)

計算尺AD1622年 · 考案

本文

ウィリアム・オートレッドは1574年3月5日、ロンドンの西、テムズ川沿いのイートンに生まれた。父はイートン校の書記で、生徒に字と計算を教えていた。息子は父から数の扱いを習った。1592年ごろケンブリッジ大学のキングズ・カレッジに入り、学士、修士と進んで、フェロー(研究員)になった。

ウィリアム・オートレッドの肖像、ホラー画
ウィリアム・オートレッドの肖像、ホラー画Wikimedia Commons Wenceslaus Hollar · Public domain

当時の大学の課程に、数学はほとんどなかった。中心は神学と古典と論理学である。彼は在学中から数学に没頭し、ほかの者が眠ったり遊んだりしている夜の時間を数学にあてた、という趣旨のことを後年書いている。1603年に聖職に就き、1610年、ロンドンの南、サリー州の小さな村アルベリの教区司祭になった。以後50年、彼はそこを離れなかった。

田舎の司祭館が、事実上の数学の学校になった。彼は学びたい者を家に泊めて教え、謝礼を受け取らなかった。のちに無限大の記号∞を使い始めたジョン・ウォリス、建築家として名を残す前に数学者・天文学者だったクリストファー・レン、天文学者で後に主教になるセス・ウォード。彼に教わり、あるいは彼の本で学んだ人々の中から、のちに王立協会を作る人たちが出た(王立協会の設立)。

ウィリアム・オートレッドの肖像
ウィリアム・オートレッドの肖像Wikimedia Commons Rijksmuseum · CC0

1631年、彼は代数の教科書『数学の鍵』を出した。100ページほどの薄い本で、言葉による長い説明の代わりに記号を多用した。当時の代数の本は、式を文章で延々と書くのがふつうだったから、これは異例だった。簡潔すぎて難しいと言われながら、この本は長く読まれ、若いアイザック・ニュートンもこれで代数を学んだとされる。

いまも使う記号のいくつかは、彼が広めたものだ。掛け算の×は、この本で使われた。比を表す::も彼による。三角関数を短く書く略記の早い例も、彼の著作に見える。もっとも、×には反対もあった。ゴットフリート・ライプニッツは、未知数を表す文字とまぎらわしいとしてこれを嫌い、点で掛け算を表した。いまも二つの書き方が並んで使われている。

オートレッドが1610〜1660年に司祭を務め、埋葬された聖ペテロ・パウロ教会、サリー州オールバリー
オートレッドが1610〜1660年に司祭を務め、埋葬された聖ペテロ・パウロ教会、サリー州オールバリーWikimedia Commons Hassocks5489 · CC0

彼のもう一つの仕事が計算尺である(計算尺)。1614年にネイピアの対数が発表され、掛け算を足し算に置き換えられるようになった。まもなくイギリスのエドマンド・ガンターが、対数の目盛を刻んだ物差しを作った。コンパスで目盛の長さを測り取って足し合わせれば、掛け算ができる。1622年ごろ、オートレッドはこれを見て、目盛を刻んだ物差しを二本重ねて滑らせればコンパスはいらない、と気づいた。円形のものと直線のものを、両方考えた。

だが彼はすぐには発表しなかった。自分の発見を世に出すことに熱心な人ではなかった。1630年、彼の教えを受けたリチャード・デラメインが、円形の計算尺についての小冊子を出し、自分の考えとして示した。オートレッドは激怒し、1632年に自分の説明を出版して、デラメインを盗用者だと責めた。デラメインは独立に考えついたと言い返した。論争は数年続き、互いの人格を攻撃し合う見苦しいものになった。決着はつかず、この件は老いた司祭の評判に影を落とした。

オートレッドの「比例円環」の器具、エリアス・アレン製(1633〜40年頃)、ハーバード大学蔵
オートレッドの「比例円環」の器具、エリアス・アレン製(1633〜40年頃)、ハーバード大学蔵Wikimedia Commons Daderot · Public domain

同時代の伝記作家ジョン・オーブリーが、彼の人となりを書き残している。小柄で、黒い髪と黒い目をして、生気にあふれていた。夜通し起きていることも多く、火口箱とインクつぼをそばに置いて書き続けた。妻は彼がろうそくを使いすぎることに腹を立てていた。そして、貧しい者に無料で教えた。彼は錬金術や占星術にも深い関心を持っていた。当時、それらは数学とはっきり分かれてはいなかった。

彼は国王派だった。清教徒革命と国王処刑のさなか、議会派は彼を教区から追い出そうとしたが、友人たちのとりなしで免れたと伝えられる。

清教徒革命と国王処刑に関わる図版:Battle of Naseby, hand-coloured copper engraving
清教徒革命と国王処刑Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1660年6月30日、オートレッドはアルベリで死んだ。86歳だった。その年の5月、チャールズ2世がロンドンに戻り、王政が復古していた。オーブリーは、彼は国王の帰還の知らせに喜びのあまり死んだ、と書いている。もちろん逸話である。

計算尺はその後350年にわたって技術者の道具であり続けた。蒸気機関を作る人も、橋を架ける人も、月へ向かう宇宙船を設計する人も、胸のポケットにそれを差していた。1970年代に電卓が出回るまで、それは計算の速さそのものだった。×の記号は、いまも小学校の教室で毎日書かれている。田舎の司祭が自分の家で無償で教え続けた数学は、彼の弟子たちを通じて、イギリスの科学の始まりにつながっていった。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1574年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →