できごと

塵劫記

The Jinkoki
AD1627年
重要度 4
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概要

吉田光由が、明の『算法統宗』を下敷きに、日本の暮らしに合わせて書いた算術の入門書である。算盤の使い方、掛け算の九九、両替、検地、利息、そして継子立てや鼠算のような遊びの問題まで、絵入りで並べた。版を重ね、模倣と海賊版が無数に出て、江戸期を通じて最も読まれた数学の本になった。巻末に答えを付けない問題を残す遺題の形式を作り、それが次の著者への挑戦として受け継がれ、和算の発展を駆動した。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

関わった人(1)

吉田光由AD1598年–AD1673年 · 著者

本文

『塵劫記』の著者吉田光由(1598〜1673年)は、京都の嵯峨に生まれた。吉田家は角倉の名で知られる一族の流れで、一族の角倉了以は大堰川や高瀬川を切り開いて舟を通し、朱印船で海外とも商いをした豪商である。光由は京都でも屈指の豊かな家に育ち、了以の子で書と学問に秀でた角倉素庵のもとで学んだ。算術は、割り算の書を著した毛利重能に習ったとされる。

光由が手本にしたのは、明の程大位が1592年に著した『算法統宗』である。当時中国から入ってきた、算盤(算盤と読み書き算盤)を使う算術の教科書だった。光由はこれを丸写しにせず、日本の暮らしに合わせて組み直した。1627年(寛永4年)、『塵劫記』が刊行された。光由は数えで30歳だった。題の「塵劫」は、仏典で途方もなく長い時間を表す「塵点劫」に由来し、いつまでも価値を失わない書という願いを込めたものと説明される。

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Wikimedia Commons 663highland · CC BY 2.5

本はまず算盤の使い方から始まる。珠の動かし方、掛け算の九九、そして割り算。当時の算盤は上に2つ、下に5つの珠を持つものが普通だった。続いて暮らしと仕事で使う計算が並ぶ。江戸の世は金・銀・銭の三つの貨幣が並び立ち、その交換の相場は日々動いた。両替の計算は町人にとって日常の必要だった。田畑の面積を測る検地、利息、年貢、材木の体積、土木工事に要る人足の数。どれも、商いや村の仕事を回す人なら避けて通れない計算である。

この本を他と分けたのは、遊びの問題である。「継子立て」は、先妻の子と後妻の子を合わせて30人を輪に並べ、10番目ごとに一人ずつ外していくと誰が残るか、という問題で、西洋でいうヨセフスの問題と同じ型をしている。「鼠算」は、正月に鼠のつがいが12匹の子を産み、2月には親も子もまたそれぞれ12匹ずつ産む、と続けたとき、12月には何匹になるかを問う。答えは276億8257万4402匹で、増え方の速さを体で知る等比数列の問題である。「油分け算」は、1斗の油を7升枡と3升枡だけで5升ずつに分ける手順を問う。いまも水差しの問題として算数の本に載っている型だ。どの問題にも場面を描いた挿絵が付いていて、計算の本でありながら読み物として楽しめた。

吉田光由の算盤
吉田光由の算盤Wikimedia Commons Public domain

『塵劫記』はよく売れた。光由は何度も手を入れて版を改め、寛永年間だけで複数の版を出している。売れれば真似られる。他人が書いた本に「塵劫記」の題を付けた海賊版や模倣が数多く出回り、「塵劫記」という題そのものが算術の入門書を指す言葉になった。江戸時代を通じて刊行された「塵劫記」の名を持つ本は、数百種にのぼるともいわれる。江戸期に最も広く読まれた数学の本である。

偽物の横行に困った光由は、1641年(寛永18年)の版の巻末に、答えを付けない問題を12問載せた。これを遺題という。解けるものなら解いてみよ、という挑戦であり、自分の本の確かさを示す意味もあった。そして思いがけないことが起きた。別の算術家がその遺題を解いた本を出し、巻末に自分の新しい遺題を載せたのである。次の者がそれを解き、また新しい問題を出す。この「遺題継承」は百年近く続いた。榎並和澄の『参両録』、礒村吉徳の『算法闕疑抄』、村松茂清の『算俎』、沢口一之の『古今算法記』と、本から本へ問題が手渡されていった。関孝和の『発微算法』(1674年)は、沢口一之が残した15問の遺題に答えた本である(関孝和と和算)。

吉田光由の著作に見る数の表(塵劫記)
吉田光由Wikimedia Commons Public domain

学会も大学も学術誌も無い時代に、出版された本が、数学者たちの公開の挑戦状の連なりになった。問題は回を追うごとに難しくなり、和算は短い間に高度な技法を備えていった。和算が独特の発展を遂げた理由の一つは、この仕組みにある。

江戸期の日本で、なぜこれほど算術が広まったのか。17世紀前半には木版の商業出版が京都で根づき、本を作って売る仕組みが整っていた。読み書き算盤を教える寺子屋も、やがて各地に広がる。検地や年貢、両替、商家の帳簿と、実務の必要もあった。そして、算術そのものを楽しむ人々がいた。解けた問題を絵馬に書いて神社や寺に奉納する算額の習慣が生まれ、感謝と次の人への挑戦をかねて、各地の社寺に掲げられた。現存する算額は900面ほどとされ、世界でも類のない慣行である。

寺子屋に関わる図版:Bungaku-Bandai no-Takara-Terakoya-School-by-Issunshi-Hanasato
寺子屋Wikimedia Commons Issunshi Hanasato · Public domain

光由の後半生については、あまり分かっていない。晩年に目を悪くしたとも伝えられる。1673年に没した。明治に入って西洋の数学が学校で教えられるようになるまで、「塵劫記」の名は算術の本の代名詞であり続けた。鼠算や油分け算、継子立ての問題は、いまも算数の教材として子どもたちの前に現れる。400年前に京都の豪商の一族が書いた本の遊び心は、まだ生きている。

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