DNAの二重らせん
概要
生命の設計図の形が分かった。X線で撮られた「51番写真」が決め手になる。それは撮影者に断りなく見せられた写真だった。
場所
52.21°N 0.12°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ロザリンド・フランクリンAD1920年7月25日–AD1958年4月16日 · 撮影本文
親から子へ、形や性質が受け継がれる。その仕組みを担うものが何か、20世紀の半ばまでは分かっていなかった。メンデルがエンドウ豆の交配から、遺伝を伝える「単位」があることを示したのは1866年のことである(メンデルのエンドウの論文)。それが細胞の中の何なのかについて、多くの科学者は、複雑な構造を持つタンパク質だろうと考えていた。
流れが変わったのは1940年代である。1944年、アメリカのオズワルド・エイブリーらは、肺炎を起こす細菌の性質が、別の細菌から取り出したDNAによって変わることを示した。DNAは、たった4種類の部品(塩基)が並んだだけの、単純すぎるように見える分子だった。それでも、遺伝を担うのはDNAらしい、という証拠が重なっていった。ただ、DNAがどんな形をしているのかが分からなければ、それがどうやって情報を蓄え、どうやって自分を正確に写し取るのかも説明できなかった。

ロンドンのキングス・カレッジでは、ロザリンド・フランクリンがその形に迫っていた。フランクリンはケンブリッジで化学を学び、パリでX線を使って結晶の構造を調べる技術を磨いた研究者である。1951年にキングス・カレッジに移り、DNAの細い繊維にX線を当て、その散らばり方(回折像)を写真に撮る仕事を始めた。湿り気の加減によってDNAが二つの異なる形をとることを突き止め、それぞれをはっきり撮り分けた。同じ研究所のモーリス・ウィルキンズとは、仕事の分担をめぐる行き違いから折り合いが悪かった。
一方、ケンブリッジ大学のキャヴェンディッシュ研究所では、アメリカから来た20代の生物学者ジェームズ・ワトソンと、イギリスの物理学者フランシス・クリックが、自分たちで実験をする代わりに、分かっている事実から模型を組み立てて答えを探していた。1951年、二人は最初の模型を作ったが、フランクリンに一目で誤りを指摘された。アメリカの大化学者ライナス・ポーリングも、1953年の初めに三本の鎖からなる誤った構造を発表している。競争は激しくなっていた。
1952年5月、フランクリンと大学院生のレイモンド・ゴズリングは、「51番写真」と呼ばれることになる一枚を撮った。中心から十字の形に広がる黒い点の並びは、DNAがらせんの形をしていることをはっきり示していた。1953年1月、ウィルキンズはこの写真を、フランクリンに断ることなくワトソンに見せた。ワトソンは後に、写真を見た瞬間に口がぽかんと開き、脈が速くなったと書いている。同じころ、フランクリンの測定データを含む研究所の報告書も、正式な手続きを経ずにクリックの手に渡った。
二人はそこから数週間で模型を完成させた。2本の鎖が、互いに逆向きに巻きついた二重のらせん。外側に糖とリン酸の背骨があり、内側で塩基が、アデニンはチミンと、グアニンはシトシンと、決まった組み合わせで手をつなぐ。この組み合わせは、DNAの中でアデニンとチミン、グアニンとシトシンの量がそれぞれ等しいという、生化学者シャルガフの発見ともぴったり合った。
1953年4月、科学誌『ネイチャー』に、ワトソンとクリックの論文が載った。同じ号に、ウィルキンズらの論文と、フランクリンとゴズリングの論文が並んで掲載された。ワトソンとクリックの論文は、私たちの考えた塩基の対の作り方が、遺伝物質を複製する仕組みを示唆していることに気づいていないわけではない、という控えめな一文で終わる。2本の鎖をほどけば、それぞれが相手を写し取る型になる。形が分かったことで、遺伝の仕組みそのものが見えたのである。
フランクリンはその後、ウイルスの構造の研究に移り、成果を上げた。だが卵巣がんにかかり、1958年に37歳で亡くなった。1962年、ノーベル生理学・医学賞はワトソン、クリック、ウィルキンズの3人に贈られた。ノーベル賞は亡くなった人には贈られない。
1968年、ワトソンは発見の経緯を書いた『二重らせん』を出版し、その中でフランクリンを、気難しく協力しない人物として描いた。この本への反発から、フランクリンの貢献を見直す動きが始まり、彼女は女性の科学者が正当に評価されなかった象徴として語られるようになった。もっとも近年は、残された手紙や記録をもとに、フランクリンは一方的に成果を奪われた被害者というより、二重らせんの解明に加わった対等な研究者の一人だった、と捉え直す研究も出ている。どちらにせよ、彼女の測定なしにこの発見が無かったことは疑いない。
二重らせんの発見から、分子の言葉で生命を読む時代が始まった。1960年代には、塩基の並びがどのようにタンパク質に置き換えられるかという遺伝の暗号が解かれ、1970年代には遺伝子を切り貼りする技術が生まれた(遺伝子組み換え技術の誕生)。2003年、人間の持つDNAの塩基の並びがほぼすべて読み取られた(ヒトゲノム計画)。50年で、形から全文まで来たことになる。