三十七度
概要
熱があるかどうかは、額に手を当てて決めていた。ライプツィヒの内科医カール・ヴンダーリヒは、入院患者の体温を来る日も来る日も測り、紙に点を打って線で結んだ。一尺ほどある温度計を脇に二十分挟む作業を、二万五千人分積み上げたという。そこから、健康な人の体温はおよそ三十七度に収まること、そして病気ごとに熱の上がり下がりの形が違うことを示した。熱は病気そのものではなく、体が出している合図である。手のひらの感じが、紙の上の線に置き換わった。
場所
51.34°N 12.37°E · ドイツ
本文
熱があるかどうかを確かめるには、額に手を当てる。あるいは自分の額と比べてみる。19世紀の半ばまで、医者のやり方も、基本はそれと大きく変わらなかった。脈を取り、肌に触れ、顔色を見て、熱いか熱くないかを判断する。だが、この方法で分かることは少ない。熱いか、ひどく熱いかくらいしか言えない。触る人によって感じ方が違う。そして、昨日と今日を正確に比べることができない。
温度計そのものは、17世紀からあった。ガリレオ・ガリレイの周りの人々が空気の膨らみで温度を見る器具を作り、やがて液体を使う温度計が生まれた。18世紀にはファーレンハイトやセルシウスが目盛りを定め(温度の目盛)、温度は数字で表せるようになっていた。体温を測る試みも、何人かの医者が行っていた。それでも、温度計は病室の道具にはならなかった。当時の体温計は長さが20センチを超え、脇の下に挟んで目盛りが落ち着くまで15分から20分もかかった。忙しい医者が、患者一人ひとりにそれだけの時間をかけることは難しかった。

その手間を引き受けたのが、ドイツの内科医カール・ヴンダーリヒ(1815〜1877年)である。南ドイツのテュービンゲンで学んで教え、1850年、ライプツィヒ大学の内科の教授となり、大学病院の病棟を預かった。彼は、病気を症状の寄せ集めとしてではなく、体の働きの変化として、測れるもので捉えようとした医者だった。
ヴンダーリヒがしたことは、単純で、そして根気のいることだった。入院している患者の体温を、一日に何度か、決まった時刻に測る。入院した日から、退院するか亡くなるまで、毎日続ける。測った値を紙に点で打ち、点と点を線で結ぶ。彼と助手たちは、この作業を何年にもわたって続けた。体温を測った患者は2万5000人にのぼり、測った回数は100万回を大きく超えたとされる。

1868年、彼はその成果を『病気における体温の挙動』という本にまとめた。分かったことの一つ目は、健康な人の体温が狭い範囲に収まることだった。彼が示したのは、脇の下で測っておよそ36.2度から37.5度の間、その中心が摂氏37度である。体温は朝に低く、夕方に高いという一日の波があることも示された。そして、38度を超えれば熱がある疑いが強い、と彼は考えた。
二つ目は、病気ごとに熱の上がり下がりの形が違うということだった。腸チフスでは、熱が毎日少しずつ、階段を上るように上がっていく。マラリアでは、高い熱と平熱とが、一日おき、二日おきというように規則正しく繰り返す。肺炎では、熱が急に上がって高いまま続き、ある日を境に一気に下がる。紙の上の線の形を見れば、どの病気か見当をつけられ、病気がいまどの段階にあるか、回復に向かっているかも読み取れる。
三つ目は、熱は病気そのものではない、ということだった。それまで、熱はしばしば病気そのものとみなされ、熱を下げることが治療だと考えられていた。ヴンダーリヒは、熱は体の中で起きていることの合図であり、病気の経過を映す目盛りだと考えた。熱を見ることは、病気を見ることになった。
線を書いた紙は、病室の寝台の足元に掛けられるようになった。夜の当番の医者や看護師が替わっても、紙を見ればそれまでの経過が一目で分かる。体温表は、患者の体についての記録を、人から人へ確実に引き継ぐ道具になった。いまの病院で使われる体温表や経過表は、この紙の子孫である。
ただし、20分もかかる体温計では、ふつうの医者の手には広まらない。1867年ごろ、イギリスの医師トマス・オールバットが、長さ15センチほどの短い体温計を作らせた。5分ほどで読み取れ、上着のポケットに入れて持ち歩ける。その後も改良が重ねられ、体温計は医者の鞄に入り、やがて家庭の薬箱にも入っていった。熱を測ることは、医者に頼まなくても誰にでもできることになった。
37度という数字は、長く平熱の基準として通ってきた。日本では、37度を超えると微熱と感じる人が多い。だが、その後の研究では、健康な人の平均の体温は37度よりいくらか低いという報告が重ねられている。体温は人により、時刻により、測る場所により変わる。脇の下と口の中と耳とでは、同じ人でも数字が違う。ヴンダーリヒが使った温度計の一本を後の研究者が調べたところ、いまの温度計より高めに出たという報告もある。さらに、この150年のあいだに人々の平均の体温そのものが少しずつ下がってきたという研究もあり、感染症が減って体の炎症が少なくなったことなどが理由として挙げられている。
それでも、37度という数字は残った。一人の医者と助手たちが何年も測り続けた結果が、世界の基準になったのである。それより半世紀前にパリで生まれた聴診器が体の音を聞く道具として広まり、同じころドイツではロベルト・コッホが病気を起こす細菌を突き止めつつあった。医学は、患者の言葉と医者の勘から、数字と記録と証拠へと軸足を移していた。
測るとは、比べられるようにすることである。昨日の自分と比べ、隣の寝台の患者と比べ、別の病院の別の患者と比べる。そのためには、目盛りがそろい、測り方がそろっていなければならない。体温計が医者の手に入ったとき、患者の訴えではなく数字が記録に残るようになった。それは大きな前進だったが、同時に、患者が自分の体について語る言葉が、記録の中で目立たなくなっていく始まりでもあった。