できごと

平賀源内のエレキテル

Hiraga Gennai's Elekiter
AD1776年(安永5年)
重要度 3
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概要

長崎で壊れたオランダの摩擦起電機を手に入れて、何年もかけて修理した。ガラスを回して静電気を起こし、火花が出る。見世物にして金を取った。本草学、物産会、火浣布(石綿)、寒暖計、油絵、浄瑠璃、『放屁論』。何でもやって、何も完成せず、1779年、酒で人を斬って獄死した。「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常」。杉田玄白の墓碑。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(1)

平賀源内AD1728年–AD1780年1月24日 · 修理した

本文

平賀源内は1728年、讃岐の国の志度浦、いまの香川県で、高松藩の身分の低い藩士の家に生まれた。子どものころから器用で知られ、藩の薬草園で働いたあと、20代の半ばに長崎へ遊学して、オランダから入ってくる品や知識に触れた。やがて家督を妹の婿に譲って江戸へ出ると、本草学者の田村藍水に弟子入りした。本草学は、薬になる草木や鉱物を調べる学問で、そこから動植物や鉱物の産物全体を調べる博物学へと広がりつつあった。

源内は、師とともに、各地の産物を一か所に集めて見せ合う物産会を江戸で開いた。1762年に源内が中心となって開いた会では、全国の協力者から1300種ほどの産物が集まり、翌年、その中から選んだものを解説した『物類品隲』を著した。燃えない布である石綿の布、火浣布を作って幕府の役人に見せ、オランダの寒暖計をまねたものを作り、秩父の山で鉱山の開発を試みた。老中の田沼意次が商工業を盛んにしようとしていた田沼時代の空気の中で、源内は国の産物を開発して富を生み出す夢を追った。

田沼時代に関わる図版:田沼意次の肖像画
田沼時代Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

源内は学者であると同時に、文章の名手でもあった。風来山人などの名で滑稽な読み物を書いて評判をとり、福内鬼外の名で書いた浄瑠璃『神霊矢口渡』は、のちまで上演される当たり作となった。屁をひる芸人を題材にした『放屁論』では、世の中を皮肉った。夏の土用の丑の日に鰻を食べる習わしは、鰻屋に頼まれた源内が店先に貼り紙を書かせたのが始まりだという話が広く知られているが、これを裏付ける江戸時代の記録は見つかっておらず、後の時代に広まった伝説と見られている。

1770年、源内は2度目の長崎の旅で、壊れたエレキテルを手に入れた。エレキテルは、オランダ語で電気を意味する言葉から来た名で、ガラスを布や革でこすって静電気を起こす摩擦起電機のことである。ヨーロッパでは18世紀の半ばに盛んに作られ、火花を飛ばして人を驚かせる見世物や、電気の刺激で病を治すという治療に使われていた。アメリカのベンジャミン・フランクリンが凧を使って雷が電気であることを示そうとしたのも、同じ時代のことである(フランクリンの雷の実験)。

「平賀鳩渓肖像」。木村黙老著『戯作者考補遺』の写本(明治時代に書写)より
「平賀鳩渓肖像」。木村黙老著『戯作者考補遺』の写本(明治時代に書写)よりWikimedia Commons 木村黙老 / Momuō Kimura · Public domain

源内は、手に入れた壊れた器械を江戸に持ち帰り、何年もかけて修理と復元を試みた。オランダ語は読めず、仕組みを書いた本を十分に理解できたわけではなかったとみられるが、職人の手を借りながら試行錯誤を重ね、1776年、深川の住まいでついに動かすことに成功した。箱の中のガラスの瓶を取っ手で回すと、内側でこすれて電気が起き、それが金属の部分に集められて、外に出した線の先から火花が飛ぶ。触れた人は、体にびりっと衝撃を受けた。

源内は、このエレキテルを大名や裕福な商人の前で動かして見せ、評判を呼んだ。病を治す器械だとも宣伝したが、電気がなぜ起きるのかを説明できたわけではなかった。やがて、源内のもとで働いていた職人が同じものを作って売り出し、源内は偽物を作ったとして訴えている。エレキテルは、学問の器械としてよりも、珍しい見世物として江戸の人々に知られることになった。

同じころ、源内は秋田藩に招かれて鉱山の指導をした際、藩士の小田野直武に西洋の絵の陰影の付け方を教えた。直武はのちに、杉田玄白らが訳した『解体新書』の解剖図を描き、秋田蘭画と呼ばれる西洋風の絵の流れを作った。源内の興味は、薬草から鉱山、電気、絵画、文学まで、尽きることなく広がった。しかし、多くの事業は資金や技術の壁にぶつかって途中で終わり、源内は晩年、思うようにいかない不満を募らせていたと伝えられる。

『解体新書』に関わる図版:Kaitai shinsyo01
『解体新書』Wikimedia Commons Babi Hijau · Public domain

1779年11月、源内は江戸の自宅で、酒に酔ったうえでの思い違いから、訪ねてきた大工の棟梁らを斬りつけ、一人を死なせた。捕らえられて牢に入れられた源内は、翌12月、牢の中で亡くなった。破傷風によるとも言われる。52歳だった。友人の杉田玄白は、墓碑に、ああ非常の人、非常のことを好み、行いもまた非常、なぜ死に方まで非常であったのか、という意の言葉を刻んで、その死を悼んだ。

源内が修理したと伝えられるエレキテルは、東京の郵政博物館に残され、国の重要文化財に指定されている。源内のあと、大坂の橋本宗吉らがエレキテルを使った電気の実験を続け、電気についての知識は少しずつ日本に根付いていった。何でも手がけ、何も完成させなかったと評される源内だが、外から来た新しいものに真っ先に飛びつき、自分の手で動かしてみせたその好奇心は、蘭学の時代の幕開けを象徴するものだった。

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