ジャービルの錬金術
概要
蒸留、昇華、結晶化、濾過。金を作る試みの中で、実験の手順が書かれた。「実験しない者は、何も知らない」。ラテン語訳で「ゲーベル」となり、ヨーロッパの化学の最初の教科書になる。
場所
32.03°N 44.40°E · イラク
関わった人(1)
ジャービル・イブン・ハイヤーンAD8世紀–AD815年頃 · 錬金術師本文
錬金術の起こりは、紀元のはじめごろのエジプト、ギリシア語を話す学者たちの町アレクサンドリアにさかのぼる。金属を溶かし、色を変え、混ぜ合わせる職人の技と、万物は少数の元素からなり、互いに変わりうるというギリシアの哲学、そして神秘の宗教の思想が、そこで一つに溶け合った。卑しい金属を貴い金に変えることができる、という信念である。この学問は、7世紀にアラブの人々がエジプトやシリアを征服したあと、ギリシア語の書物の翻訳を通じてイスラム世界に受け継がれた。8世紀の半ばのアッバース革命のあと、バグダードを中心に、ギリシアの学問をアラビア語に移す大きな流れが起き、やがてバグダードの知恵の館に結実していく。
その流れのなかで、錬金術の名と結びつけて語られるのが、ジャービル・イブン・ハイヤーンである。伝えられるところでは、父はクーファの薬種商で、アッバース家の運動に加わって命を落とし、ジャービルはイラン東部のトゥースで生まれた。その後クーファで学び、シーア派で尊ばれたイマームのジャアファル・サーディクの教えを受け、ハールーン・アッラシードの宰相の家として権勢をふるったバルマク家に仕えた、という。しかし、これらはいずれも後世の伝えで、同じ時代の確かな記録はほとんど無い。

ジャービルの名で伝わる書物は、10世紀のバグダードの書籍商が作った目録の段階で、すでに数百点、数え方によっては3000点にのぼるとされた。一人の人間が書ける量ではない。目録を作った書籍商自身、ジャービルが本当にいたのかを疑う人がいると書き残している。20世紀の文献学の研究は、書物の用語や思想を調べ、その多くが9世紀の後半から10世紀にかけて、シーア派の一派イスマーイール派に近い学者の集団によって書かれたものだと論じた。ジャービルという人物が8世紀に実在し、その名のもとに後の人々の著作が集まったのか、それとも名前そのものが後から作られたのかは、いまも決着がついていない。
書物の中身は、多彩で、ときに神秘的だった。中心にあるのは、すべての金属は硫黄と水銀の二つの成分が、さまざまな割合で結びついてできている、という理論である。金は二つがもっとも完全な釣り合いで結びついたもので、ほかの金属は釣り合いが崩れているにすぎない。だから適切な処理で釣り合いを整えれば、どんな金属も金に変えられるはずだ。物の性質を熱・冷・乾・湿の四つの性質の量で表し、その量をアラビア文字の名前に割り当てた数から計算しようとする「均衡の学」も唱えられた。人工的に生き物を造り出す方法を論じた書もある。

その一方で、書物には、実際の作業の手順が細かく書かれていた。液体を熱して蒸気を冷やし、純粋な成分を取り出す蒸留。固体を熱して直接気体にし、冷えた部分に付着させる昇華。溶かした液から純粋な結晶を取り出す結晶化。そのための器具として、ガラスや陶器の蒸留器や炉の作り方が説明され、さまざまな塩や鉱物の扱い方が記された。書物のなかには、実験をしない者は何も確かに知ることはできない、という趣旨の言葉もある。金を作るという目的は果たせなかったが、物質を分け、精製し、性質を確かめる技術は、この試みのなかで磨かれた。10世紀の医師で錬金術にも通じたラーズィーは、こうした技術をさらに体系づけ、器具と物質を分類した。
12世紀、イスラム世界から取り戻されたイベリア半島のトレドなどで、アラビア語の学術書をラテン語に移す翻訳が盛んになった。翻訳者クレモナのジェラルドは、ジャービルの名で伝わる『七十の書』をラテン語に訳している。ジャービルの名はラテン語で「ゲベル」となった。13世紀の後半には、ヨーロッパで「ゲベル」の名を冠したラテン語の錬金術書『完成大全』が書かれ、明快な理論と実験の記述で広く読まれた。だが、この本にあたるアラビア語の原典は見つかっていない。いまでは、ヨーロッパの学者がアラビアの権威の名を借りて書いた偽書だと考えられている。ヨーロッパの化学の最初の教科書と呼ばれる本は、アラビアの名をまとったラテン語の作品だったのである。

錬金術はその後もヨーロッパで生き続けた。16世紀のパラケルススは、錬金術の目的を金ではなく薬を作ることに向け、17世紀にはアイザック・ニュートンも、ひそかに錬金術の研究に膨大な時間を費やした。同じ世紀にロバート・ボイルが元素の考え方を問い直し、18世紀の終わりにアントワーヌ・ラヴォアジエが物質の量を正確に測って燃焼のしくみを明らかにすると、錬金術は近代の化学に席を譲った。それでも、アランビーク(蒸留器)、アルカリ、アルコール、エリクサー(霊薬)といった言葉は、アラビア語の冠詞「アル」の名残をとどめて、今もヨーロッパの言葉の中に残っている。意味の分からないおしゃべりを指す英語の言葉がゲベルの名から来た、という俗説もあるが、辞書の多くはこれを認めていない。