人物

マイケル・ファラデー

Michael Faraday
AD1791年9月22日 – AD1867年8月25日(享年75)
イギリス重要度 4

概要

製本屋の徒弟から実験家になった。磁石を動かせば電流が起きると示す。数式はほとんど使わず、代わりに「場」という考え方を残した。

関わったできごと(1)

電磁誘導の発見AD1831年8月29日 · 発見

本文

1791年9月22日、ロンドンの南の郊外に生まれた。父は鍛冶屋で、体が弱く、家はいつも貧しかった。パンが一週間に一つしか配られないこともあったという。一家は、聖書の教えに厳しく従う小さなキリスト教の一派に属していた。その信仰は生涯ファラデーを支えた。学校で習ったのは、読み書きと計算の初歩だけだった。

マイケル・ファラデーの肖像
マイケル・ファラデーの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

14歳で、製本屋の徒弟になった。店の主人は寛大で、持ち込まれた本を読むことを許した。ファラデーは製本を待つ百科事典の電気の項目を読みふけり、化学の入門書を読んで、自分で小さな実験を始めた。後年、この二つが科学への入口だったと語っている。

1812年、店の客から、王立研究所で開かれる化学者ハンフリー・デーヴィーの公開講義の切符をもらった。ファラデーは講義を聞いて詳しい筆記を作り、清書して図を入れ、製本までして、助手に雇ってほしいという手紙を添えてデーヴィーに送った。翌1813年、研究所の助手に欠員が出ると、デーヴィーは彼を採用した。21歳だった。

1850年ごろの研究室で作業中のファラデー。作者の Harriet Jane Moore はファラデーの生活を水彩画で描いた。
1850年ごろの研究室で作業中のファラデー。作者の Harriet Jane Moore はファラデーの生活を水彩画で描いた。Wikimedia Commons Harriet Jane Moore · Public domain

その年の秋から1年半、デーヴィー夫妻のヨーロッパ旅行に助手として同行した。召使いの役目もさせられ、夫人には使用人として扱われて辛い思いをした。それでも各地で一流の科学者たちに会い、その仕事を間近に見た。この旅が、彼の大学の代わりになった。

1820年、デンマークのエルステッドが、電流を流した針金のそばで方位磁針が動くことを見つけた。電気が磁気を生むのである。翌年、ファラデーは、電流の流れる針金が磁石のまわりをぐるぐる回り続ける装置を作った。電気の力で連続した動きを生む、電動機の原理の最初の実演だった。同じ年、サラ・バーナードと結婚した。子は無かったが、仲の良い夫婦だった。

テトラクロロエチレン分子
テトラクロロエチレン分子Wikimedia Commons Public domain

その後も、塩素などの気体を圧力で液体にし、ベンゼンを見つけ、ガラスの改良に取り組んだ。師デーヴィーは弟子の名声を妬み、ファラデーが王立協会の会員に選ばれることに反対した。それでも彼は選ばれた。炭坑の爆発を防ぐ安全灯を生んだ師への敬意は、最後まで失わなかったという。

電気が磁気を生むなら、磁気から電気を生めるはずだ。その考えを、ファラデーは何年も手帳に書き留めていた。1831年8月、鉄の輪に二つの導線を巻き、片方に電流を流したり切ったりした瞬間だけ、もう片方に電流が流れることを見つけた。秋には、コイルの中に棒磁石を出し入れすると電流が生じることを示した(電磁誘導の発見)。磁石を動かせば電気が起きる。発電機の原理であり、いま私たちが使う電気のほとんどは、この原理で作られている。

電磁力による回転実験(1821年ごろ)
電磁力による回転実験(1821年ごろ)Wikimedia Commons Michael Faraday · Public domain

続けて、電気を通して物質を分ける電気分解の法則を見つけた。そのとき、電極、陽極、陰極、イオンといった、今も使われる言葉を、知人の学者と相談して作っている。光の進み方が磁石の力で変わることも見つけた。

学校で数学を学ばなかったファラデーは、方程式を書かなかった。代わりに、磁石のまわりに鉄粉をまくと現れる模様のように、目に見えない力の線が空間を満たしている、という図で考えた。力は離れたところへ一瞬で届くのではなく、間の空間が何かを伝えている。この「場」の考えを、若いジェームズ・クラーク・マクスウェルが数式に置き直し(電磁場の理論)、光が電磁波であることが明らかになる。

1845年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で誘電体中の光が磁場の影響を受けることを示した。[注釈 2]
1845年の実験で使ったガラス棒を手にしたファラデー。その実験で誘電体中の光が磁場の影響を受けることを示した。[注釈 2]Wikimedia Commons Maull and Polyblank · Public domain

研究所では、一般の人に向けた金曜日の講演会と、子どもたちのためのクリスマス講演を始めた。ファラデー自身もクリスマス講演に19回立った。1860年の暮れの講演をまとめた『ロウソクの科学』は、一本のロウソクが燃える仕組みから、化学と自然の世界を語り起こす本で、いまも世界中で読まれている。

新しい発見について、「それが何の役に立つのか」と問われて、「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つのか」と返したという話や、財務大臣に「いずれ税をかけられるようになる」と答えたという話が伝わる。ただし、どちらも後世の作り話の可能性が高いとされる。

テムズ川の主に名刺を渡すファラデー(1855年7月21日のパンチ誌の風刺画)
テムズ川の主に名刺を渡すファラデー(1855年7月21日のパンチ誌の風刺画)Wikimedia Commons John Leech · Public domain

名誉には背を向けた。騎士の称号も、王立協会の会長の職も断った。クリミア戦争のとき、政府から敵の要塞に使う毒ガスの研究を求められると、道に外れるとして断ったと伝えられる。テムズ川の汚れを嘆く手紙を新聞に寄せ、川に白い紙を沈めて見えなくなるまでの深さを示したこともある。

晩年は記憶が衰えた。ヴィクトリア女王から贈られたハンプトン・コートの家で、1867年8月25日、書斎の椅子に座ったまま亡くなった。75歳だった。ウェストミンスター寺院への埋葬は辞退していて、ロンドン北部の墓地に、質素な墓がある。アインシュタインは、書斎の壁にアイザック・ニュートン、マクスウェルと並べて、ファラデーの肖像を掛けていた。

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