アル=イドリースィー
概要
ムスリムの地理学者が、キリスト教徒の王に仕えて世界地図を作った。パレルモは当時、アラビア語・ギリシア語・ラテン語が並んで使われる場所だった。
関わったできごと(1)
『ロジェールの書』と世界地図AD1154年 · 作成本文
正式な名はアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・アル=イドリースィー。1100年ごろ、ジブラルタル海峡のアフリカ側の港町セウタで生まれたとされる。名前の「イドリースィー」は、8世紀にモロッコで最初のイスラーム王朝を開いたイドリース家の血を引くことを示している。一族はその後アンダルス(イベリア半島のイスラーム圏)のマラガなどで小王朝を立てた家系で、彼は由緒ある家の出だった。
若いころ、アンダルスの学問の都コルドバで学んだ(コルドバのカリフ宣言)。16歳ごろから旅に出て、イベリア半島、北アフリカ、さらに小アジアまで足を延ばしたことが、本人の記述から分かる。フランスやイングランドの海岸まで行ったとする説もあるが、確かではない。
1138年ごろ、彼はシチリア王ルッジェーロ2世に招かれて、パレルモの宮廷に入った。シチリアは9世紀からイスラーム教徒に支配されていたが、11世紀の後半、北フランスから来たノルマン人がこれを征服していた(ノルマンのパレルモ征服)。ノルマンの王たちは、イスラーム教徒の住民やギリシア正教のギリシア人を追い払わず、その知識と技術を政治に取り込んだ。ルッジェーロ2世の宮廷では、公文書がアラビア語、ギリシア語、ラテン語で書かれ、役人にはムスリムもギリシア人もいた(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。パレルモの王の工房で王のために作られた赤い絹の外套には、ラクダを襲う獅子の図柄とともに、アラビア語の祝福の銘が刺繍されている。王の礼拝堂の天井には、イスラームの職人が描いた宴や楽人の絵が並ぶ。

ルッジェーロ2世は、自分の国と世界の姿を正確に知りたいと考えた。王国はシチリア島と南イタリアにまたがり、北アフリカの沿岸にも手を伸ばしていた。王がイドリースィーに命じたのは、知られている限りの世界を記し、地図にすることだった。
方法は徹底していた。手本としたのは、2世紀のギリシアの学者クラウディオス・プトレマイオスの『地理学』と、先行するアラブの地理書である。そのうえで、パレルモの港に出入りする商人、船乗り、巡礼者、使節たちを呼んで話を聞いた。同じ土地について複数の人に聞き、話が一致したものだけを採り、食い違うものは捨てた、と序文に書いている。王自身も聞き取りに加わり、距離を確かめるために測量の道具を使わせたという。
作業は15年に及んだ。1154年の初め、本と地図が完成した。本の題は『世界を横断しようと望む者の慰みの書』で、王の名をとって『ルッジェーロの書』とも呼ばれる(『ロジェールの書』と世界地図)。世界を赤道から北へ七つの気候帯に分け、それぞれを西から東へ10の区分に切って、70枚の区分図と、それに対応する地誌の本文を作った。各地の町、町と町の距離、産物、住む人びとの暮らしが記されている。地図は南を上にして描かれており、当時のイスラーム世界の地図の習わしに従っている。

このほかに、大量の銀を使って、平らな円盤に世界図を刻ませた。だがこの銀の地図は残っていない。王の死後、1160年代の初めにパレルモで起きた反乱の際に壊されたか、溶かされたと考えられている。いま見られるのは、写本に描き写された区分図と、それをつなぎ合わせた世界図である。
本が完成して数週間後の1154年2月、ルッジェーロ2世は死んだ。イドリースィーは、後を継いだグリエルモ1世のためにも地理書を書いたとされるが、それは失われた。パレルモの宮廷では、王の死後、ムスリムの役人や住民への圧力が強まった。イドリースィーは晩年に北アフリカへ戻り、1165年ごろに死んだとされるが、どこでいつ死んだのか、確かなことは分かっていない。

キリスト教徒の王のために働いたことは、イスラーム世界の側では評判を落としたのかもしれない。同時代のイスラームの伝記の書物に、彼についての記述はほとんど無い。その一方で、彼の地図と本は、イスラーム世界でも写され続け、のちの地理学者たちに使われた。ヨーロッパでは、1592年にローマでアラビア語の抄本が印刷され、17世紀の初めにはラテン語に訳された。訳者たちは著者の名を知らず、「ヌビアの地理学者」と呼んでいた。
シチリアの三つの言語が並び立つ時代は、長くは続かなかった。12世紀の終わりからムスリムの住民は反乱と弾圧の末に山地へ追われ、13世紀の前半には、神聖ローマ皇帝を兼ねたシチリア王フリードリヒ2世によって、イタリア本土の町ルチェーラへ移された。ムスリムの学者がキリスト教徒の王の宮廷で世界の地図を作るという場面は、二つの世界がまだ混ざり合っていた短い時期の産物だった。70年ほど後、東方ではヤークート・アル=ハマウィーが、モンゴルから逃れながら地名の事典を編むことになる。