人物

アインシュタイン

Albert Einstein
AD1879年3月14日 – AD1955年4月18日(享年76)
ドイツ/アメリカ合衆国重要度 5

概要

時間と空間が絶対でないと示した。核兵器の開発を促す手紙に署名し、後に悔いる。

関わったできごと(3)

アインシュタインの奇跡の年AD1905年 · 当人一般相対性理論AD1915年11月25日 · 発表したラッセル=アインシュタイン宣言AD1955年7月9日 · 署名した

本文

1879年3月14日、南ドイツのウルムでユダヤ系の家庭に生まれ、ミュンヘンで育った。父と叔父は電気器具の会社を営んでいた。5歳のとき、病床で父に方位磁針を見せられ、針を動かす見えない何かに深く心を動かされたと、晩年の自伝的な覚え書きに書いている。12歳では幾何学の教科書に夢中になり、それを「聖なる幾何学の小冊子」と呼んだ。

アルベルト・アインシュタインの肖像
アルベルト・アインシュタインの肖像Wikimedia Commons Oren Jack Turner · Public domain

暗記と服従を求めるギムナジウムになじめず、卒業を待たずに学校を去った。家族の移ったイタリアを経てスイスに移り、チューリッヒの連邦工科大学を受験したが、一度目は不合格だった。数学と物理は抜きん出ていたが、他の科目が足りなかった。スイスの州立学校で一年学び直して入学し、1900年に卒業する。教授たちの受けが悪く、大学の助手の職は得られなかった。

1902年、友人の父の口添えで、ベルンの特許局に審査官として職を得た。持ち込まれる発明の図面を読み、仕組みの要点を見抜く仕事だった。翌年、大学の同級生だったミレヴァ・マリッチと結婚する。勤務の合間と夜に、物理の問題を考え続けた。

1905年、5本の論文を出した(アインシュタインの奇跡の年)。光は粒のようにふるまうという光量子仮説、水に浮かぶ微粒子の不規則な動きから分子の実在を示すブラウン運動の理論、特殊相対性理論、そして質量とエネルギーは同じものの別の姿だという、のちに「エネルギーは質量に光速の二乗をかけたもの」という式で知られる論文。26歳の年になる。学位論文もこの年にまとめている。

アインシュタインの奇跡の年に関わる図版:Einstein patentoffice
アインシュタインの奇跡の年Wikimedia Commons Lucien Chavan [ 1 ] (1868 - 1942), a friend of Einstein's when he was living in Berne. · Public domain

時間の進み方や物の長さが、観測する人の動き方によって違う、という主張は、日常の感覚に反する。それを支えたのは新しい実験ではなく、光の速さは誰から見ても同じであり、物理の法則は一定の速さで動くどの観測者にとっても同じ形をとる、という二つの前提から、論理を最後まで追った結果だった。光の波に並んで走ったら何が見えるか、という問いを、16歳の頃から考えていたと本人は書いている。

論文はすぐには理解されなかったが、数年で評価が広まり、チューリッヒ大学、プラハ大学を経て、1914年にベルリンのプロイセン科学アカデミーに迎えられた。そこで重力を時空のゆがみとして説明する理論に取り組み、1915年に一般相対性理論を完成させた。1919年、イギリスの観測隊が皆既日食の際に、太陽のそばを通る星の光が理論の予言どおり曲がっていることを確かめたと発表し、彼は一夜にして世界でいちばん有名な科学者になった。

アインシュタインの肖像(1921年)
アインシュタインの肖像(1921年)Wikimedia Commons Ferdinand Schmutzer · Public domain

ノーベル賞は1921年度の物理学賞として贈られたが、対象は相対性理論ではなく、光電効果の説明だった。当時、相対性理論はまだ受け入れられきっておらず、選考委員会は評価の定まった業績を選んだ。授賞が決まったとき、彼は日本へ向かう船の上にいて、1922年の秋から冬にかけて日本各地で講演している。

一方で、自分が開いた量子の理論が、物事を確率でしか語れない量子力学へ発展すると、それを完全な理論とは認めなかった。神はサイコロを振らない、という趣旨の言葉を友人あての手紙に書いている。ボーアとの論争は長く続き、晩年は重力と電磁気を一つにまとめる理論を追い続けたが、成功しなかった。

ドイツでは、ユダヤ人の科学者として激しい攻撃を受けるようになった。1933年にナチスの政権掌握が起きたとき、アメリカに滞在していた彼は帰国せず、プリンストンの高等研究所に移った。財産は没収され、著書は焼かれた。

ナチスの政権掌握に関わる図版:Hitler as young man
ナチスの政権掌握Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1939年、ハンガリー出身の物理学者シラードらが、ナチス・ドイツがウランの核分裂を使って強力な爆弾を作るおそれがあると考え、フランクリン・ローズヴェルト大統領あての手紙を起草した。名の知られた彼が署名し、手紙は大統領に届けられた。これが原爆開発の後押しの一つになり、のちのマンハッタン計画へつながる。彼自身は計画に加わっておらず、保安上の理由から加わることも許されなかった。

1945年の広島・長崎への原爆投下の知らせを聞いて、深く打ちのめされたと伝えられる。のちに化学者ポーリングに、大統領への手紙に署名したことは生涯で一つの大きな過ちだったと語った。ただ、ドイツが先に作るかもしれないという危険があったので正当化はできた、とも付け加えている。戦後は核兵器の国際管理と軍縮を訴えた。

広島・長崎への原爆投下に関わる図版:Atomic bombing of Japan
広島・長崎への原爆投下Wikimedia Commons George R. Caron / Charles Levy · Public domain

1952年には、新しく建国されたイスラエルの大統領への就任を打診されたが、自分には人を扱う能力も経験も無いと辞退した。1955年4月、哲学者ラッセルとともに核戦争の危険を訴える声明に署名した(ラッセル=アインシュタイン宣言)。それが最後の公的な行動の一つになる。

4月18日、プリンストンの病院で、腹部の大動脈瘤の破裂により死んだ。76歳。延命の手術を断り、人工的に命を延ばすのは趣味が悪い、自分の役目は果たした、と語ったと伝えられる。遺体は火葬されたが、解剖した病理医が脳を持ち出して保存し、のちに論議を呼んだ。

アルベルトと妹のマリア(通称「マーヤ」)(1885年)
アルベルトと妹のマリア(通称「マーヤ」)(1885年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

身なりに構わず、靴下をはかず、バイオリンを愛した。相対性理論は、人工衛星を使った位置測定の時計の補正など、いまの暮らしの技術にも使われている。物理の常識を問い直した人であり、自分の手紙が開いた核の時代に、最後まで責任を感じていた人でもあった。

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