ゲオルギウス・アグリコラ
概要
本名はゲオルク・パウアー。ザクセンの染物屋の子。ライプツィヒで古典を学び、イタリアで医学を修めた。銀山の町ヨアヒムスタール、次いでケムニッツの市医となる。坑夫を診療しながら、坑内に入り、道具と手順を記録した。鉱物を色、硬さ、光沢など観察できる性質で分類し、化石を生物の遺骸と考えた。ケムニッツ市長を四度務めた。カトリックのまま、宗教改革下のザクセンに留まったため、死後、市内に埋葬されなかった。
関わったできごと(1)
デ・レ・メタリカAD1556年 · 著者本文
ゲオルギウス・アグリコラは1494年3月24日、ザクセンの小さな町グラウハウに生まれた。本名はゲオルク・パウアー。パウアーはドイツ語で「農民」のことで、それをラテン語の同じ意味の語に置き換えたのがアグリコラである。人文主義の学者たちは、こうしてラテン語の名を名乗るのがならいだった。家は染物屋とも織物商とも伝えられる。

1514年、彼はライプツィヒ大学に入り、ギリシア語とラテン語の古典を学んだ。当時の人文主義の教育である。卒業後はツヴィッカウの学校でギリシア語を教え、やがて校長になった。1522年に再びライプツィヒで医学を学び始め、翌年からイタリアへ渡ってボローニャ、パドヴァ、ヴェネツィアで学んだ。医学の学位はこの間に得たとされるが、記録ははっきりしない。ヴェネツィアでは、名高いアルドゥス・マヌティウスの印刷所で、ガレノスのギリシア語全集の校訂に加わった。彼は古典の学者として世に出たのである。
1527年、彼はボヘミアの銀山の町ヨアヒムスタール(いまのチェコのヤーヒモフ)に市の医者として赴いた。1516年に豊かな銀の鉱脈が見つかり、わずか十数年で人口が一万を超えた新しい町である。ここで鋳られた銀貨「ヨアヒムスターラー」は、やがて「ターラー」と縮められ、のちの「ドル」の語源になった。

当時の薬は植物と動物と鉱物から作った。薬になる鉱物を知るため、アグリコラは坑道に入り始め、そのまま鉱山から離れられなくなった。坑夫を診療しながら、掘り方、道具、手順を聞いて回り、自分の目で確かめた。坑内の塵を吸い続けた坑夫が肺を病み、若くして死んでいくことも書きとめている。1530年には、三人の人物が鉱山を歩きながら語り合う対話篇『ベルマンヌス』を出した。エラスムスがこれに推薦の手紙を寄せた。当時の学者にとって、これ以上の推薦はなかった。
1531年、彼はザクセンのケムニッツへ移り、やがて市の医者になった。1546年に出した『化石の本性について』では、鉱物を色、硬さ、光沢、重さ、形、味、においといった、目で見て手で確かめられる性質で分けた。それまでの分類は、古代のプリニウス以来、名前の順や用途で並べるのがふつうだった。観察できる性質で分けるという考え方が、ここで初めてはっきり打ち出された。当時の「化石」は地中から掘り出したもの全般を指す語だったが、彼は貝の形をした石を、かつて生きていた生き物の遺骸だと考えた。岩の中で自然に生じた形にすぎない、という説が有力だった時代である。

ケムニッツでの彼は、学者であると同時に町の顔役だった。1546年から四度、市長を務め、ザクセン公モーリッツの使者として外交の場にも出た。しかも彼はカトリックだった。ザクセンはマルティン・ルターの宗教改革の本拠であり、ルターのいたヴィッテンベルクはすぐ近くにある。それでも町は彼を市長に選んだ。学識と実務の手腕が、信仰の違いを上回ったのである。
晩年の20年をかけて書いたのがデ・レ・メタリカ(『金属について』)である。全12巻で、鉱脈の探し方、坑道の測量と掘り方、水を汲み出すポンプや水車、坑内に風を送る仕掛け、鉱石の選り分けと製錬までを順に説いた。270点を超える木版画が添えられ、どの歯車がどこにかみ合うかまで描き込まれている。彼は、自分で見たことか信頼できる人から聞いたことだけを書くと断り、古代の権威の記述でも、現場と合わなければ退けた。プリニウスの誤りを、彼はくり返し正している。
困ったのは言葉だった。坑夫たちの使うドイツ語の用語に当たるラテン語が無い。彼は古典の語を工夫して当てはめ、どうしても無いものは新しく作った。読者が迷わないよう、ラテン語とドイツ語の用語の対照表も添えた。古典学者としての腕が、ここで生きた。
1555年11月21日、アグリコラはケムニッツで死んだ。61歳だった。町のプロテスタントの牧師は、カトリックのまま死んだ者を町の教会に葬ることを認めなかった。遺体は60キロほど離れたツァイツへ運ばれ、そこの大聖堂に葬られた。四度市長を務めた町は、彼を葬らなかったのである。
『デ・レ・メタリカ』は死の翌年の1556年に刊行され、以後200年近く、鉱山と冶金の教科書であり続けた。ドイツ語やイタリア語にも訳され、鉱山の町の教会に鎖でつながれて置かれたとも伝えられる。1912年には、のちにアメリカ大統領となる鉱山技師フーヴァーと妻のルーが、5年をかけて英語に訳している。アグリコラはいま「鉱物学の父」と呼ばれる。古典を読む力で現場を書き、現場で古典を正した人だった。