ガスパール・ド・プロニー
概要
土木技師。エコール・デ・ポンゼショセで学び、後にその校長を務めた。橋、運河、そして水力の研究で知られ、流体の摩擦を測る装置と、機関の出力を測るブレーキに名を残す。1791年、新しい度量衡に合わせた大規模な数表の作成を命じられた。分業によって単純な足し算の反復に還元するという方法を採り、十九巻の手稿を仕上げた。刊行費用が出ず、ついに印刷されなかった。手稿はパリの天文台に残っている。
関わったできごと(1)
ド・プロニーの計算工場AD1793年 · 組織した本文
ガスパール・クレール・フランソワ・マリー・リッシュ・ド・プロニーは1755年7月22日、フランス中東部ボージョレ地方の村シャムレに生まれた。父は地方の法律家だった。

彼が学んだのは、パリの国立土木学校(エコール・デ・ポン・エ・ショセ)である。18世紀半ばに作られた、世界で最も古い工学の高等教育機関の一つで、橋、道路、運河、港を造る技師を国が育てていた。イギリスでは技師が現場の徒弟修業から育ったのに対し、フランスは技師を学校で育てたのである。プロニーは1780年にここを出て、技師としての道を歩み始めた。
最初の大仕事は、パリのセーヌ川に架ける新しい橋だった。学校の初代校長で、当時のフランスの土木の第一人者だったジャン=ロドルフ・ペロネのもとで、のちにコンコルド橋と呼ばれる橋の建設に加わった。彼は水の流れの研究にも打ち込み、管や水路を流れる水が摩擦でどれだけ勢いを失うかを表す式を示した。この式は19世紀を通じて技師たちに使われた。
1789年に革命が起こると、フランスは度量衡を一新しようとした。長さはメートル、重さはグラムで十進法にそろえる(メートル法の制定)。角度も十進法にして、直角を100の単位に分けることになった。1791年、土地台帳を作る役所の長に任じられたプロニーは、この新しい角度に合わせた三角関数と対数の表を作れと命じられた。求められたのは、それまでのどの数表もはるかにしのぐ桁数と規模だった。
人手で計算するには何十年もかかる。プロニーはここで、アダム・スミスが『国富論』に書いたピン工場の話を思い出したと伝えられる。一人でピンを作れば一日に何本もできないが、針金を伸ばす、切る、尖らせる、と工程を分ければ、何千本も作れる。彼は計算を同じように分けた。いちばん上に、数学者が数人いて、どういう式で表を計算するかを決める。真ん中の十人ほどが、その式を具体的な数の手順に落とし込む。そしていちばん下の大勢の計算係は、渡された数を足したり引いたりするだけでよい。差分を足し合わせていけば、掛け算をしなくても次々に表の値が出てくる仕組みである(ド・プロニーの計算工場)。下の計算係の多くは、革命で貴族の客を失った理髪師たちだったという話がよく語られるが、どこまで本当かは分からない。
数年をかけて、膨大な手稿の表が完成した。しかし、印刷されることはなかった。刊行の費用が出なかったうえ、十進法の角度そのものが結局根づかなかったからである。手稿はほとんど使われないまま、パリの天文台などに保管されている。
革命の嵐を、彼は生き延びた。新しい国家にも技師は欠かせなかったし、彼は政治の前面に立たなかった。同じ度量衡の仕事に関わった化学者アントワーヌ・ラヴォアジエは、かつて徴税請負人だったことを理由に断頭台で処刑されている。プロニーも危うい時期を通り抜けた一人だった。1798年、ナポレオンが学者たちを引き連れてエジプトへ遠征したとき(ナポレオンのエジプト遠征)、彼は誘いを断ったと伝えられる。数表の仕事が途中だったから、とも言われる。
同じ1798年、彼は母校の国立土木学校の校長になり、死ぬまで40年近くその職にあった。理工科学校(エコール・ポリテクニーク)でも教え、のちに名を残す数学者や技師たちが彼の講義を聞いた。ナポレオンの時代にはイタリアの湿地の干拓や、各地の川と港の工事を指揮した。
1821年には、機関の力を測る装置を考えた。回る軸に摩擦の帯を締めつけ、その反動で腕が回ろうとする力を錘で測る。これで蒸気機関や水車が実際にどれだけの仕事をしているかを、数字で確かめられるようになった。「プロニーのブレーキ」と呼ばれるこの仕組みは、いまも原理として工学の教科書に載っている。
1839年7月29日、プロニーは84歳で死んだ。のちにエッフェル塔が建てられたとき、その側面に刻まれたフランスの科学者と技師72人の名の中に、彼の名も入った。
彼の仕事で最も遠くまで影響したのは、印刷されなかった数表の作り方だった。1819年ごろパリを訪れたイギリスのチャールズ・バベッジは、この計算の組織を知って強い印象を受け、下の計算係がしていることなら歯車にもできると考えた。バベッジは自分の本の中で、プロニーの事業を詳しく紹介している。彼のバベッジの階差機関と解析機関は、差分を足していくというプロニーの計算係の仕事を、そのまま機械に置き換えようとしたものだった。人を計算の部品として組む仕組みが先にあり、その部品があとから機械に置き換えられた。いまの計算機の祖先の一つは、フランス革命の役所の中にあったのである。