祖沖之の円周率
概要
3.1415926と3.1415927のあいだ、と求めた。この精度は以後900年、誰も超えなかった。355/113という近似も出した。暦を作り、指南車を直し、水車を作った。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
祖沖之AD429年–AD500年 · 数学者本文
円の周りの長さが直径の何倍になるかという数、円周率は、古代から多くの文明が求めてきた。中国では古く、周りは径の三倍とする「周三径一」が使われていた。紀元前3世紀のギリシアではアルキメデスが、円の内と外に正96角形を描いて、円周率が3と71分の10より大きく、3と7分の1より小さいことを示している。中国では3世紀の魏の数学者、劉徽が、古典の算術書『九章算術』に付けた注の中で、円に内接する正多角形の辺の数を倍々に増やしていけば、その周りは円周に限りなく近づくという方法を示し、3.14という値を得ていた。
祖沖之は、429年、南朝の宋(劉裕の宋建国)の都の建康(いまの南京)の近くで生まれた。祖先は北の范陽(いまの河北省)の出で、戦乱を逃れて南に移ってきた家である。祖父は宮殿や土木の工事を司る官に就き、父も朝廷に仕えた学者で、家には天文と暦の学問が伝わっていた。祖沖之は若いころから天文と数学に打ち込み、古い記録を自分で確かめずには信じなかったと伝えられる。宋と、それに続く斉に仕えて、地方の役人などを務めた。
祖沖之が求めた円周率は、隋の時代にまとめられた歴史書『隋書』に記録されている。それによれば、円周率は3.1415926より大きく、3.1415927より小さい。小数第7位までが正しい値である。あわせて、円周率に近い分数として、113分の355と7分の22の二つを挙げ、前者を「密率」、後者を「約率」と呼んだ。113分の355は小数第6位まで円周率と一致し、分母が千より小さい分数の中では最も近い。
この値をどうやって求めたのかは、分かっていない。祖沖之はその方法を『綴術』という本に書いたが、『隋書』は、内容があまりに奥深く、役所の学者のだれも理解できなかったために顧みられなかった、と記している。本はのちに失われた。劉徽の方法をそのまま進めたとすれば、正一万二千角形あまりから正二万四千角形あまりの周りを計算しなければならないとする推定がある。紙と筆ではなく、算木と呼ばれる小さな棒を並べて計算した時代に、何桁もの数の掛け算と平方根の計算を、気の遠くなるほど繰り返したことになる。
この精度は、およそ九百年にわたってだれにも超えられなかった。14世紀の終わりから15世紀の初めにかけて、インドのマーダヴァやサマルカンドのアル・カーシーが、より多くの桁を求めるまで、祖沖之の値が世界で最も正確な円周率だった。113分の355という分数も、ヨーロッパでは16世紀の後半になってようやく見いだされている。
祖沖之が力を注いだもう一つの仕事は、暦だった。中国の暦は、前漢の太初暦以来、観測とのずれが目立つたびに作り直されてきた。462年、彼は新しい暦を作って宋の皇帝に献じた。大明暦である。それまでの暦は、19年に7回の閏月を置く古い周期を使っていたが、祖沖之は391年に144回の閏月を置く、より細かい周期を使った。さらに、春分や冬至の太陽の位置が星々の間を少しずつずれていく歳差という現象を、初めて暦の計算に取り入れた。一年の長さは365.24281481日とされ、実際の値との差は1分に満たない。
ところが、皇帝の寵臣の戴法興が、古い聖人の定めた暦を軽々しく変えるのは天を冒涜するものだ、と強く反対した。祖沖之は一歩も引かず、自分は古人を軽んじているのではなく、実際に天を観測し、その結果に基づいて言っているのだ、と反論の文を書いた。議論は祖沖之に分があったとされるが、皇帝の死もあって採用は見送られた。大明暦が使われるようになったのは、祖沖之の死から10年後の510年、梁の時代のことで、息子の祖暅が改めて採用を求めた結果だった。祖暅もまた数学者で、球の体積を正しく求めたことで知られる。
祖沖之は、機械を作ることにも長けていた。どちらへ向きを変えても人形の手が南を指し続ける指南車を、昔の記録をもとに作り直し、一日に百里あまりを進んだという船を造り、水の力で穀物をつき、粉にひく仕掛けも作ったと伝えられる。500年に72歳で亡くなった。いまでは月の裏側のクレーターと小惑星に、その名が付けられている。