燃焼と酸素
概要
ものが燃えるのは、フロギストンという物質が抜けていくからだと説明されていた。だが金属を焼くと、灰は元より重くなる。抜けるのに重くなるので、負の重さを持つと言い繕われた。ラヴォアジエは密閉した容器の中で燃やし、前後の重さを測った。全体は変わらない。減ったのは空気のほうで、その一部が金属と結びついていた。彼はそれを酸素と名づけた。燃焼は、失うことではなく、結びつくことである。同じ天秤の使い方が、呼吸も、錆も、同じ反応だと示した。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
関わった人(1)
アントワーヌ・ラヴォアジエAD1743年8月26日–AD1794年5月8日 · 示した本文
十八世紀の化学者たちは、ものが燃える仕組みをフロギストン(燃素)で説明していた。燃えるものにはフロギストンという成分が含まれていて、燃えるとはそれが外へ抜けていくことだ、という考えである。十七世紀末のドイツの化学者ベッヒャーの考えを、十八世紀の初めにシュタールが体系にまとめた。
この説はよくできていた。炭がほとんど灰を残さずに燃え尽きるのは、炭がフロギストンの塊のようなものだからだと説明できる。閉じた容器の中で火が消えるのは、空気がフロギストンで満杯になり、もう受け取れなくなったからだと言える。金属を焼くと、もろい灰(金属灰)になる。その灰を炭と一緒に熱すると、金属に戻る。炭からフロギストンが戻されたのだ、と説明できた。説明できることが多かったので、この説は半世紀以上にわたって化学の土台であり続けた。間違った理論が、役に立たないとは限らない。

ただ、都合の悪い事実が一つあった。金属を焼くと、重くなるのである。鉛でも錫でも、焼いてできた灰は元の金属より重い。このことは十七世紀にはすでに測られていた。何かが抜けていくのに重くなるのは辻褄が合わない。そこで、フロギストンは負の重さを持つのだとか、重さはものの本質とは関係がないのだといった言い繕いがなされた。ここが分かれ目だった。測った数字を理論に合わせて解釈し直すのか、それとも数字のほうを動かせないものとして扱うのか。
フランスのアントワーヌ・ラヴォアジエ(1743〜1794年)は、後者を選んだ。彼は税の取り立てを請け負う徴税請負人の組合に出資して財を成しており、その財で当時もっとも精密な天秤や実験器具をそろえることができた。彼のやり方は一貫していた。閉じた容器の中で物を燃やし、反応の前と後で全体の重さを量る。全体の重さが変わらないことを確かめ、そのうえで、中の何が増えて何が減ったのかを追いかける。

量ってみると、金属が重くなった分と、容器の中の空気が減った分とが釣り合っていた。何かが抜けたのではない。空気の一部が金属と結びついたのである。燃えることは、失うことではなく、結びつくことだった。
その空気の一部を、先に取り出していた人々がいた。スウェーデンの薬剤師シェーレは1771年ごろ、物をよく燃やす気体を得て「火の空気」と呼んだが、本の出版が遅れた。イギリスの牧師で化学者のジョゼフ・プリーストリーは、1774年8月、水銀を焼いてできた赤い灰を大きなレンズで集めた日光で熱し、気体を取り出した。その中ではろうそくが激しく燃え、ネズミがふつうの空気の中より長く生きた。プリーストリーは自分でも吸ってみて、胸が軽くなったと書いている。彼はこれをフロギストンを抜き取られた空気と考え、「脱フロギストン空気」と名づけた。

同じ1774年の10月、パリを訪れたプリーストリーは、ラヴォアジエとの夕食の席でこの実験のことを話した。ラヴォアジエは実験を追いかけ、その気体こそ、燃焼で金属と結びつく空気の一部だと見抜いた。1777年ごろ、彼はこの気体を「酸を生むもの」を意味するギリシア語から酸素と名づけた。あらゆる酸にこの元素が含まれていると考えたからである。これは間違いで、塩酸には酸素は含まれていない。名前だけが、誤った考えをとどめたまま残った。一方のプリーストリーは、死ぬまでフロギストン説を捨てなかった。気体を見つけた本人が、その意味を認めなかったのである。
酸素による説明は、一度にいくつものことをつないだ。燃焼だけではない。金属が錆びるのは、酸素とゆっくり結びつくことである。ラヴォアジエは数学者ラプラスとともに、モルモットを氷で囲んだ容器に入れ、溶けた氷の量から体が出す熱を量った。その熱を、炭を燃やしたときに出る熱と比べ、呼吸はゆっくりした燃焼のようなものだと論じた。さらに水素と酸素から水を作って見せ、水は元素ではなく化合物であることを示した。古代ギリシア以来の四元素説は、ここで終わりを迎えた。

1789年、ラヴォアジエは『化学原論』を出した。これ以上分解できないものを元素と定義し、その一覧を載せた。三十三の元素の中には、光と熱素も含まれていて、これらは後に外されることになるが、元素を実験で定義するという考え方は残った。仲間の化学者とともに物質の名前の付け方も改めた。それまでの化学の名前は、硫黄の油や鉛の砂糖のように、由来の分からない呼び名が多かった。それを、硫酸や亜硫酸のように、何からできているかが名前から分かる体系に作り替えた。言葉を整えたことが、化学を他人に正確に伝えられる学問にした。
ラヴォアジエの最期は、革命とともにやってきた。同じ1789年に始まった革命は、やがて恐怖政治へと進み、徴税請負人たちは民衆から搾り取った者として憎まれた。1794年5月8日、ラヴォアジエはほかの請負人たちとともに革命裁判所で裁かれ、その日のうちにギロチンにかけられた。五十歳だった。裁判長が「共和国に学者は要らない」と言ったという話が伝わっているが、この言葉が実際に言われたかどうかは確かめられていない。数学者ラグランジュは、彼の頭を落とすのは一瞬で済んだが、あれほどの頭が再び生まれるには百年かかっても足りないだろう、と嘆いたと伝えられる。一年半ほど後、ラヴォアジエの名誉は回復された。

人は火の使用以来、火を使い続けてきた。火種を保ち(火口箱)、聖なる火として祀り(ウェスタの火)、やがて手軽に起こせるようにもなった(摩擦マッチ)。そのあいだずっと、火が何であるかは誰も知らなかった。それが分かったのは、新しい器具や新しい物質のおかげではない。天秤という古い道具を、閉じた容器の中の反応に当てはめ、量った数字を動かさなかったからである。