概要
1915年4月22日の夕方、ベルギーのイーペルの北で、ドイツ軍は塹壕に並べた五千本あまりのボンベの栓を開け、170トンほどの塩素を風に乗せて流した。黄緑色の雲が、アルジェリアの兵とフランスの兵の塹壕に流れ込み、兵は喉と肺を焼かれて逃げ出した。前線に数キロの穴が開いたが、ドイツ軍にも突破に回す兵がなく、カナダ兵がその穴をふさいだ。大がかりな毒ガスの使用はこれが初めてで、指揮したのは化学者フリッツ・ハーバーだった。以後、両軍がガスを撃ち合い、1917年にここで使われたマスタードガスは、町の名から「イペリット」と呼ばれる。
場所
50.85°N 2.89°E · ベルギー・西フランドル州
本文
1914年の秋、西部戦線は、スイスから北海まで塹壕が連なって動かなくなった。ベルギーに残された小さな一角、イーペルの町のまわりでは、連合軍の陣地がドイツ側へ張り出していて、激しい取り合いが続いた。ドイツは、塹壕にこもった敵を追い出す新しい手を探していた。
化学者フリッツ・ハーバーは、ドイツの軍に、塩素を気体のまま流す方法を勧めた。塩素は空気より重く、地面を這い、塹壕の底へたまる。砲弾に詰めて撃つのではなく、ボンベから風に乗せて流せば、ハーグの条約が禁じた「毒を撒く投射物」には当たらない、という理屈だった。ドイツ軍は前線に五千本あまりのボンベを埋め、何週間も風向きを待った。
1915年4月22日の夕方、風が北から吹くと、ボンベの栓が開かれ、170トンほどの塩素が流れ出た。黄緑色の雲は、アルジェリアから来た兵とフランスの年配の予備の兵の陣地を覆った。塩素は肺の中で酸に変わり、兵たちは咳き込み、泡を吐いて倒れた。生き残った兵は逃げ出し、前線に数キロの穴が開いた。だがドイツ軍は、この新しい兵器の効き目をあまり信じておらず、突破のための予備の兵を用意していなかった。続く数日、カナダの兵が、水や尿で湿らせた布を口に当てて穴を守った。
最初の驚きが過ぎると、両軍はすぐに防毒の面を作り、自分たちもガスを使い始めた。より毒性の強いホスゲン、皮膚をただれさせるマスタードガスが続いた。1917年、マスタードガスは同じイーペルで初めて使われ、フランスではこの町の名から「イペリット」と呼ばれた。大戦を通じて、ガスで死んだ兵は全死者のうちわずかだったが、苦しみ方の恐ろしさは、戦後の人々に深く刻まれた。1925年、ジュネーヴの議定書は、戦争で毒ガスと細菌を使うことを禁じた。