伊能忠敬
概要
上総の生まれ。佐原の伊能家に婿入りして酒と米で家を大きくした。50歳で隠居し、江戸で高橋至時に天文を習った。地球の大きさを知りたくて蝦夷地を測り、幕府が続けさせた。10次、17年、4万キロ。歩幅で距離を測った。「一身にして二生」。
所属
日本関わったできごと(1)
伊能忠敬の日本図AD1821年 · 測った本文
伊能忠敬は1745年2月11日(延享2年1月11日)、上総国の九十九里浜に近い小関村に生まれた。父は神保家から小関家に入った婿で、忠敬が6歳のときに母が亡くなると、父は実家に戻り、忠敬は小関家に残された。のちに父のもとに引き取られたが、少年時代は家を転々として過ごしたとされる。
1762年、17歳で下総国佐原の伊能家に婿入りした。妻は4歳年上の達である。伊能家は酒造りや米の取引、利根川の舟運などを営む旧家だったが、当時は家運が傾いていた。忠敬は家業を立て直し、新しい商いにも手を広げて、30年ほどで身代を大きく増やした。名主として村の運営にもあたった。1783年の天明の飢饉のときには、私財を投じて米を買い入れ、困窮した人々に配った。佐原からは餓死者が出なかったと伝えられる。この働きで、のちに苗字帯刀を許されている。

商人として成功しながら、忠敬は若いころから暦や天文に強い関心を持っていた。1794年、49歳で家督を長男に譲って隠居すると、翌1795年に江戸に出て、深川黒江町に住んだ。そして幕府の天文方に登用されたばかりの高橋至時に弟子入りする。至時は大坂で麻田剛立に学び、西洋の天文学を取り入れた暦学を身につけた俊英で、寛政の改革の中で暦を改めるために江戸に呼ばれたばかりだった。忠敬より19歳も年下である。同じ頃、江戸では杉田玄白らが始めた蘭学が広がり、西洋の知識への関心が高まっていた。忠敬は自宅に観測機器をそろえ、太陽の南中を毎日のように測った。暇さえあれば計算に励むので、周りからは「推歩先生」と呼ばれた。推歩とは暦を計算することをいう。
当時、至時たちが知りたかったのは、地球の大きさだった。緯度1度に当たる距離が分かれば、地球の外周が計算できる。忠敬は、黒江町の自宅と浅草の天文台の間の距離と緯度の差から計算しようとしたが、至時に、距離が短すぎて意味がない、と言われた。もっと長い距離、たとえば蝦夷地までを測れば、正確な値が出る。ちょうど北方にロシアの船が現れ、幕府は蝦夷地の正確な地図を必要としていた。至時は、蝦夷地の地図を作るという名目で、忠敬の測量の許しを幕府から取りつけた。

1800年閏4月19日、55歳の忠敬は、息子や弟子ら数人とともに江戸を発った。奥州街道を北上して蝦夷地に渡り、太平洋側の海岸を測りながら進んだ。180日ほどの旅で、費用の多くは忠敬が自ら負担した。測り方は素朴である。一定の歩幅で歩いて歩数を数え、曲がり角ごとに方位を測る。のちには縄や鎖も使った。夜は宿で星を観測して緯度を出し、誤差を補正した。忠敬の歩幅は、およそ69センチだったという。
帰ってから作った地図の出来栄えは幕府を驚かせ、測量は続けられることになった。第二次から第四次で、東北や関東、東海、北陸の海岸を測った。1804年、師の至時が40歳ほどで亡くなる。同じ年、忠敬は東日本の地図を将軍徳川家斉の閲覧に供し、その出来に感心した幕府は、以後の測量を幕府の直轄の事業とした。忠敬は幕臣に取り立てられ、測量隊が通る土地の大名や村は、宿や人足を出して協力するよう命じられた。
第五次からは西日本に向かった。近畿、中国、四国を回り、1809年からの第八次では九州を3年近くかけて測った。忠敬はこのとき60代の半ばを過ぎていた。旅の途中では、隊員の不祥事や、病、そして長男の死の知らせもあった。1815年には第九次として伊豆諸島が測られ、最後の第十次では江戸の市中を測った。17年にわたる10回の測量で、歩いた距離は4万キロ近く、地球を一周するほどになった。この間、忠敬が蝦夷地で測りきれなかった北の海岸の一部は、間宮林蔵の測量が補ったとされる。
忠敬が求めた緯度1度の距離は、約28.2里(約110.7キロ)と出た。今の値とほとんど変わらない。至時は当初、この数字を信じなかったが、のちにオランダの天文書の値と一致することが分かり、師弟は手を取り合って喜んだと伝えられる。

1818年4月13日(旧暦)、忠敬は八丁堀亀島町の自宅で地図の完成を見ずに死んだ。73歳。至時の子で天文方を継いだ高橋景保らは、その死を伏せたまま作業を続けた。1821年、全国の海岸線を描いた「大日本沿海輿地全図」が完成し、幕府に納められた(伊能忠敬の日本図)。大図214枚、中図8枚、小図3枚から成る。忠敬の死はそれから公にされた。遺言により、忠敬は上野の源空寺で、師の高橋至時の墓の隣に葬られた。
伊能図はその後、幕府の秘蔵となった。1828年、景保が伊能図の写しをドイツ人医師シーボルトに渡していたことが発覚し、景保は捕らえられて獄中で死んだ。シーボルトが持ち出した地図をもとに、ヨーロッパでは日本の正確な姿が知られるようになった。明治になると、伊能図は陸軍や海軍の地図の土台として使われた。2010年、伊能忠敬に関わる資料は一括して国宝に指定された。佐原には今も旧宅と記念館が残る。商人として一生を終えてもおかしくなかった人が、50歳から天文を学び、日本の形を描いた。その生き方は、隠居後の人生を考える人々に今も語り継がれている。