人物

華佗

Hua Tuo
? – AD208年頃
後漢重要度 4

概要

沛国の人。麻沸散で麻酔をして腹を切り、腸を洗って縫った、と『三国志』。五禽戯。虎、鹿、熊、猿、鳥。体操。「私は本当は儒者になりたかった」。曹操の侍医を嫌がって帰った。獄で死に、医書は焼かれた。名前だけが「名医」の代名詞に。

関わったできごと(1)

華佗の死AD208年頃 · 医者

本文

後漢の末、沛国の譙県(いまの安徽省亳州)の人。名は旉、字は元化と伝えられる。生まれた年は分からない。同じ譙県から、のちに華佗の運命を握る曹操が出ている。華佗の生涯は、陳寿『三国志』の方技伝と、范曄の『後漢書』の方術伝に記されている。

華佗
華佗Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

若い頃に徐州のあたりで学び、儒教の経書にいくつも通じていた。体を養う術にも長け、百歳近いと言われながら、壮年のような顔色をしていたと『後漢書』は書く。地方の長官に孝廉(官吏の推薦の枠)として推され、朝廷の最高位の官からも招かれたが、どちらにも応じなかった。医の道を選んだのか、仕官を嫌ったのかは分からない。各地を巡って病人を診た。

華佗の名を不朽にしたのは、外科の手術の記録である。『三国志』によれば、病が体の内にあって薬や針が届かないときは、まず麻沸散という薬を酒で飲ませた。患者が酔ったように感覚を失うと、腹を切り開いて病んだところを取り除き、腸の病であれば腸を切って洗い、縫い合わせて膏を塗った。4、5日で傷はふさがり、1か月ほどで元どおりになったという。全身に麻酔をかけて開腹手術をしたという記録としては、世界でも最も古いものの一つになる。麻沸散の処方は伝わっておらず、何を使ったのかは分からない。チョウセンアサガオや大麻を用いたのではないかという推測がある。

歌川国芳画『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』
歌川国芳画『通俗三国志之内 華陀骨刮関羽箭療治図』Wikimedia Commons Utagawa Kuniyoshi · Public domain

華佗は、病を防ぐための体操も考えた。虎、鹿、熊、猿、鳥の5つの動物の動きをまねて体を動かす「五禽戯」である。人の体は動かすべきだが、極めてはならない、動かせば食べたものが消化され、血の巡りがよくなって病が生じない、と華佗は語ったという。弟子の呉普はこれを続けて、90歳を過ぎても目も耳もよく、歯も揃っていたと伝えられる。もう一人の弟子の樊阿は針の名手で、普通の医者が恐れて浅くしか刺さない背中や胸に、深く針を刺したという。

『三国志』には、華佗の診立ての逸話がいくつも並んでいる。広陵の太守の陳登が、胸が苦しく顔が赤く、食事が喉を通らなくなったとき、華佗は、腹の中に虫がいる、生の魚を食べたせいだ、と言って薬を飲ませ、たくさんの虫を吐かせた。そして、この病は3年後にまた起こる、そのときに良い医者がいれば助かる、と告げた。3年後に病は再発したが、華佗はそばにおらず、陳登は亡くなった。こうした話は、華佗の名声とともに誇張されて伝わった部分もあるだろう。

その名声は曹操の耳にも届いた。曹操は持病の頭風(激しい頭痛やめまい)に苦しんでいて、華佗を呼び寄せた。華佗が針を打つと、痛みはたちまち治まったという。曹操は華佗をそばに置いて、自分専属の医者とした。だが、華佗はこの務めを嫌った。もともと医者として仕えることを本意としていなかったとも書かれている。家から手紙が来たと言って暇を願い出て故郷に帰り、妻が病気だと言って戻らなかった。曹操は何度も呼び出しの手紙を送り、役人にも命じて連れ戻させようとしたが、華佗は応じなかった。

怒った曹操が人をやって調べさせると、妻の病は偽りだった。華佗は捕らえられて獄に入れられ、罪を認めた。重臣の荀彧は、華佗の術は人の命にかかわるものだから許すべきだ、と取りなしたが、曹操は、天下にこんな鼠のような輩がいなくなるとでも心配しているのか、と言って聞かなかった。華佗は獄中で死んだ。拷問のうちに死んだとも記される。死を前にして、華佗は一巻の書を取り出して獄吏に渡し、これで人を救うことができる、と言った。だが獄吏は、法に触れるのを恐れて受け取ろうとしなかった。華佗は無理に渡そうとはせず、火を求めてその書を焼いた。

華佗の死後も、曹操の頭痛は治らなかった。曹操は、華佗ならこれを治せたが、あの小人は私の病をわざと長引かせて、自分を重く見せようとしたのだ、たとえ殺さなくても、根本から治すことはなかっただろう、と言ったという。だが、愛児の曹沖が重い病で亡くなったとき、曹操は、華佗を殺したことを悔やむ、この子をむざむざ死なせてしまった、と嘆いたと『三国志』は書く(華佗の死)。曹沖が亡くなったのは208年で、華佗はそれより前に死んでいたことになる。

1930年、歴史学者の陳寅恪は、華佗の物語にはインドの仏典に出てくる名医の説話と似たところが多いと指摘した。さらに、華佗という名は、薬を意味するインドの言葉の音を写したものではないかとも論じた。華佗という医者がいたことは疑わないにしても、その伝説の一部はインドの説話が重なってできたのではないか、という説である。これには反論も多く、決着はついていない。

明代の小説『三国志演義』では、華佗は毒矢に射られた関羽の腕を切り開いて骨を削り、関羽はその間、平然と碁を打っていたという名場面に登場する。正史の『三国志』にも関羽が矢傷の骨を削らせ、酒を飲みながら平然としていたという話はあるが、そこに医者の名は書かれていない。関羽が樊城で傷を負ったのは219年頃で(関羽の死と荊州の喪失)、華佗はすでにこの世にいなかった。物語が、名医の名を借りたのである。

華佗の医書は灰になり、麻沸散の処方も失われた。中国の医学は、その後、体を切り開く外科の方向へは大きく進まなかった。それでも華佗の名は、名医の代名詞として残った。腕のよい医者は「華佗の生まれ変わり」とたたえられ、故郷の亳州には華佗を祀る廟がある。五禽戯は、形を変えながら今も健康体操として伝えられている。

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