できごと

本草綱目

The Compendium of Materia Medica
AD1596年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1596年の版図を描いています(30勢力)。

概要

李時珍が二十七年かけて書いた薬物の書である。1,892種を、鉱物から人体まで十六の部に分けて並べた。分類の順を、無機から植物、動物へと段階的に上げている。374種を新しく加え、既存の書の誤りを正した。自ら山に入り、農民と漁師と猟師に聞き、自分で試した。生前には刊行されず、死の三年後、南京で出た。日本には1607年に伝わり、江戸期の本草学の土台になった。ダーウィンが「中国の百科事典」として引いている。

場所

南京
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省

関わった人(1)

李時珍AD1518年–AD1593年 · 著者

本文

『本草綱目』の本草とは、薬になるもののことである。もとは草木を指したが、鉱物や動物も含む。綱目とは、大きな分類の綱と、その下の細かな項目の目を意味する。題そのものが、この書の方法を言い表している。

中国には、薬物の書の長い系譜があった。後漢のころにまとめられたとされる『神農本草経』は365種の薬を収めた。唐の659年に国の事業として編まれた『新修本草』は、国家が編纂した最初の薬典の一つとされる。宋の時代には、さらに大きな本草書がまとめられた。だが、写し継がれ、書き足されるたびに、誤りも混じっていった。同じ薬に別々の名がいくつも付き、違う薬が同じ名で呼ばれる。薬を取り違えれば、人が死ぬ。

『本草綱目』の版本
『本草綱目』の版本Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この混乱を正そうとしたのが、明の医師李時珍(1518〜1593年)である。湖北の蘄州に、医者の家の子として生まれた。父は息子を役人にしようと科挙を受けさせたが、李時珍は郷試に三度落ち、医の道に進んだ。名医として知られるようになり、一時は都の太医院にも勤めたが、まもなく故郷に戻った。そして、本草の書を一から書き直す仕事に取りかかった。

仕事は1552年から1578年まで、27年に及んだ。彼が30代半ばから60歳になるまでの年月である。その間に、原稿を三度書き改めたと伝えられる。彼はまず、読んだ。参照した書物は八百種を超え、項目ごとにどの書が何と言っているかを出典とともに記し、そのあとに自分の判断を書いた。誰の説なのかと、自分の意見とを、はっきり分けたのである。

『本草綱目』の版本
『本草綱目』の版本Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

次に、歩いた。湖北から江西、江蘇、安徽などの山野に入り、自分の手で薬草を採った。農民や猟師、漁師、木こり、薬売りに話を聞き、書斎の学者が知らないことを彼らが知っている、という趣旨のことを書き残している。そして、試した。チョウセンアサガオの花を自ら服して、しびれや幻覚の作用を書き留めた。笑いながら飲めば笑いが止まらなくなり、踊りながら飲めば踊りが止まらなくなる、と伝える記述は、この薬の作用をよく表している。

できあがった書は、16の部と60の類に分けて、1892種の薬物を収めた。そのうち374種は、それまでの本草書に無かった新しい項目である。処方は1万1000を超え、千枚を超える図が添えられた。並べ方にも考えがあった。水、火、土、金石から始まり、草、穀、菜、果、木と植物が続き、器物をはさんで、虫、鱗のあるもの、貝のあるもの、鳥、獣と動物が並び、最後に人が来る。無機のものから植物へ、そして動物へ、人へと、単純なものから複雑なものへ段を上がるように配列したのである。生き物が移り変わるという進化の考えではないが、自然を段階のある秩序として見る目がそこにある。

最後の「人部」には、髪や乳、唾など人の体に由来する薬が並ぶ。当時は人の肉や骨、胆を薬にするという言い伝えもあったが、李時珍はそれを残酷なことであり医の道ではない、という趣旨ではっきり退けた。

各項目は、決まった見出しの順に書かれた。名の由来と別名を述べる釈名、産地と姿を述べる集解、先人の誤りを正す正誤、加工の仕方を述べる修治、性質を述べる気味、効き目を述べる主治、自分の見解を述べる発明、そして処方を並べる附方である。正誤と発明の項があることが、この書の性格を決めた。先人の誤りを名指しで正し、自分の意見をそれと分けて書く。

書き上げたものの、版元はなかなか見つからなかった。分量があまりに大きく、刷る費用が出なかったからである。1590年、南京の書肆の主人、胡承龍がようやく引き受けた。李時珍は当代一の文人とされた王世貞に序文を頼み、王世貞は会った李時珍の姿を、やせて仙人のようだったと書いている。刊行の準備が進むなか、1593年に李時珍は世を去った。数え年で76歳だった。書が南京で刷り上がったのは、その3年後の1596年である。

『本草綱目』は中国で本草学の標準の書となり、清の時代を通じて版を重ねた。日本へは1607年に伝わった。林羅山が長崎で手に入れ、徳川家康に献じたと伝えられる。この書は江戸時代の本草学の出発点になった。貝原益軒の『大和本草』(1709年)は、日本の動植物を独自に調べて書いた本だが、その土台には『本草綱目』があった。稲生若水や小野蘭山といった学者が研究を重ね、蘭山の講義をまとめた『本草綱目啓蒙』(1803年)は、日本の博物学を大きく前進させた。多くの薬や動植物の名前が、この書を通じて日本語に入った。

ヨーロッパにも、17世紀以降、その一部が訳されて伝わった。チャールズ・ダーウィンは『飼育栽培下における動植物の変異』などで、古い中国の百科事典として金魚や鶏の品種の記述を引き、人が選んで品種を作る営みの証拠に用いている。彼が読んだのは訳された断片だったが、それでも役に立った(『種の起源』)。

『種の起源』に関わる図版:Origin of Species title page
『種の起源』Wikimedia Commons John Murray, Publisher · Public domain

いまでも『本草綱目』は、中国の伝統医学の基本の文献の一つである。新しい薬の手がかりを求めて読まれることもある。2015年にノーベル生理学・医学賞を受けた屠呦呦は、マラリアの薬アルテミシニンを見つけ出すにあたって、古い本草書や処方の書を系統だてて調べた。決め手となったのは4世紀の葛洪の処方の書にあった、青蒿を水に浸し、しぼった汁を飲むという一節で、煮ずにしぼるという点から、熱を加えると有効な成分が壊れることに気づいたという(古い処方から新しい薬)。

『本草綱目』は近代の科学ではない。性質や陰陽、効き目についての記述には、いまの薬理学と合わないものが多く含まれる。それでも、出典をはっきり示し、先人の誤りを名指しで正し、自分の見解を伝え聞きと分けて書き、現地で自分の目と手で確かめる、というその方法は、驚くほど近代的だった。それが、この書をただの薬の一覧から分けている。

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