アイザック・ニュートン
概要
天体の運行と落ちる林檎を同じ式で説明した。世界が法則で書けると示す。
関わったできごと(5)
ニュートンのプリズムAD1666年 · 示したニュートンの反射望遠鏡AD1668年 · 作った『プリンキピア』AD1687年 · 著者ハレーの彗星の予言AD1705年 · 重力南海泡沫事件AD1720年 · 失った本文
1642年のクリスマスの日、当時イングランドで使われていた暦で、イングランド東部リンカンシャーの寒村ウールスソープに生まれた。いまの暦では1643年1月4日になる。父は生まれる3か月前に死んでいた。月足らずで小さく生まれ、1リットルの壺に入るほどだったと本人が語っている。

3歳のとき、母は近くの村の牧師と再婚し、ニュートンを祖母のもとに残して去った。少年時代の自分の罪を書き出したメモに、義父と母を家ごと焼いてやると脅したことが挙げられている。母が義父の死で戻ってきたのは、ニュートンが10歳の頃だった。
近くの町グランサムの学校に通い、薬屋の家に下宿した。風車や水時計の模型を作るのが得意で、凧に灯りをつけて夜空に上げ、村人を驚かせたという話がある。母は家の農場を継がせようと呼び戻したが、羊の番をしながら本を読んでいて役に立たず、学校の先生の説得で大学へ進むことになった。

1661年、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに、ほかの学生の雑用をして学費を補う身分で入った。大学の講義はアリストテレスの学問が中心だったが、ニュートンはデカルトやガリレオの新しい学問を自分で読み進めた。
ペストで大学が閉鎖された1665年からの2年に、微積分、光の分解、万有引力の着想が集まっている。郷里に戻っていたこの時期は、のちに「驚異の年」と呼ばれる。本人が後年そう語ったもので、実際にはもっと長い時間がかかったとする研究もある。庭の林檎が落ちるのを見て、同じ力が月にも届いているのではないかと考えたという話も、晩年の本人が知人に語ったものである。

ニュートンのプリズムでは、プリズムで太陽の光を分け、白い光がさまざまな色の光の混じり合ったものだと示した。レンズの望遠鏡では色がにじむことから、鏡を使うニュートンの反射望遠鏡を自作し、王立協会の設立に送って会員に選ばれた。27歳でケンブリッジの数学の教授になっている。
1684年、天文学者のエドモンド・ハレーが訪ねてきて、太陽からの引力が距離の2乗に反比例するなら惑星はどんな軌道を描くかと尋ねた。ニュートンは即座に、楕円だと答え、計算はとっくにしてあると言ったと伝わる。ハレーに促されて書き始めた本が、1687年の『『プリンキピア』』になる。出版の費用はハレーが自分で出した。

『プリンキピア』が示したのは、月が落ちてこない理由と、林檎が落ちる理由が同じだということだった。運動の三つの法則と万有引力の法則から、ケプラーの法則も、潮の満ち干も、彗星の軌道も導かれる。天と地が別の法則で動くという2000年の前提が消える。ハレーはのちにこの理論を使って彗星の回帰を予言した。
同時代の人と激しく争った。光学では王立協会の設立の実験主任フックと、微積分の先取権ではゴットフリート・ライプニッツと。フックへの手紙には、自分が遠くまで見渡せたとすれば巨人の肩に乗っていたからだ、という有名な一節がある。ライプニッツとの争いでは、王立協会が調査の委員会を作ったが、その報告書を匿名で書いたのはニュートン自身だった。

1690年代に入ると、研究から離れていく。1693年には深い精神の不調に陥り、友人たちに奇妙な手紙を送った。錬金術の実験で水銀を扱っていたことが原因だとする説があり、遺髪から高い濃度の水銀が見つかっている。
1696年、ロンドンの造幣局に移り、のちに長官となった。粗悪な硬貨と贋金が出回り、国の財政を揺るがしていた時期で、ニュートンは硬貨の鋳造し直しを指揮した。自ら変装して酒場で聞き込みをしたとも伝わり、贋金作りを追い詰めて処刑させている。1703年には王立協会の会長になり、1705年、科学の業績で初めてナイトに叙された。

1689年には、名誉革命の後の議会にケンブリッジ大学の代表として選ばれた。議場で発言したのは、窓を閉めてほしいと頼んだ一度だけだったという話があるが、後世の笑い話の類とされる。
錬金術と聖書年代学に、物理学より多くの時間を使った。遺された草稿の大半はそちらになる。三位一体の教えを否定する異端の考えを持っていたことも、草稿から分かっている。公になれば職を失う考えで、生涯ひそかに守っていた。経済学者ケインズは、その草稿を買い集めて読み、ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、最後の魔術師だった、と書いた。

晩年には南海泡沫事件で大金を失ったとされる。生涯結婚せず、1727年3月、84歳で死んだ。ウェストミンスター寺院に国葬の礼で葬られた。イギリスに滞在していたフランスの思想家ヴォルテールはその葬儀を見て、王のように葬られた学者に驚いている。詩人ポープは、自然と自然の法則は闇に隠れていた、神が「ニュートンあれ」と言うと、すべてが光になった、という墓碑銘の詩を作った。世界が法則で書けると示した人の頭の中には、神の意図を読み解こうとする信仰が同じ重さで詰まっていた。