フランシス・ベーコン
概要
知識は力なり。権威ある書物ではなく観察と実験で自然を問えと説いた。大法官まで上り、収賄で失脚する。
関わったできごと(1)
『ノヴム・オルガヌム』AD1620年 · 著者本文
1561年1月22日、ロンドンのテムズ川沿いの屋敷で生まれた。父ニコラス・ベーコンはエリザベス1世の国璽尚書で、王国で最も重要な役人の一人だった。母アンはギリシア語とラテン語に通じた学識ある女性で、熱心なピューリタンだった。母の姉の夫は女王の第一の重臣バーリー卿である。幼いベーコンの利発さを、女王は「若き国璽尚書」と呼んで可愛がったと伝えられる。

12歳で兄とともにケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入った。大学で教えられていたのは、アリストテレスの論理学と自然学を、権威ある書物として読み解く学問だった。ベーコンはこれに失望し、言葉の上の論争を重ねるだけで、人の暮らしに役立つ成果を何も生まないと考えた。のちに彼は、学問を作り直すという生涯の構想は、このころすでに芽生えていたと書いている。
15歳で、駐フランス大使に随行してパリへ渡った。だが1579年、父が急死する。遺産の大半は兄たちに渡り、末の息子にはわずかな財産しか残らなかった。帰国した彼は法律家の道を選び、法曹院で学んで弁護士になった。

政治家としての出世は遅かった。20代で下院議員になり、長く議席を守ったが、バーリー卿は自分の息子を引き立て、甥には手を貸さなかった。ベーコンは女王の寵臣エセックス伯に近づき、その庇護を受けた。ところが1601年、エセックス伯が反乱を起こすと、ベーコンは法律家として伯を訴追する側に立ち、処刑への道を開いた。恩人を見捨てた男という評判は、生涯ついて回った。
1603年に女王が死に、スコットランドからジェームズ1世が迎えられると、ベーコンの運が開けた。法務次官、法務長官と上り、1617年に国璽尚書、翌年には父も届かなかった大法官となった。貴族に列せられ、ヴェルラム男爵、さらにセント・オールバンズ子爵となった。

しかし頂点は短かった。1621年、議会は彼を収賄で告発した。訴訟の当事者から金品を受け取っていたというのである。贈り物は当時の慣行でもあり、贈り主に有利な判決を下したわけではない、と彼は弁明した。だが王の寵臣バッキンガム公への議会の反発や、宮廷の政争の中で、彼は守られなかった。ベーコンは罪を認め、すべての官職を失った。4万ポンドの罰金と、ロンドン塔での投獄を言い渡された。投獄は数日で解かれ、罰金も事実上免除されたが、二度と政治の舞台には戻れなかった。
彼が後世に残したのは、政治の傍らで書き続けた著作のほうである。1597年に出た『随筆集』は、人生、権力、友情、学問について、短く鋭い文で書いた随想で、英語の散文の古典になった。読書は充実した人を、会話は機転の利く人を、書くことは正確な人を作る、という一節はよく知られている。
1605年の『学問の進歩』で、彼は学問の現状を見渡し、何が欠けているかを論じた。そして1620年、主著『ノヴム・オルガヌム』(新しい道具)を出した(『ノヴム・オルガヌム』)。題は、アリストテレスの論理学の書物群「オルガノン」に対抗したものである。人間の知性は、生まれつきの思い込み、個人の偏り、言葉の混乱、権威ある学説への盲従という四つの「イドラ」(幻影)に惑わされている。それを取り除き、自然を辛抱強く観察し、実験で問いただし、個々の事実を積み重ねて一般的な法則へ慎重に上っていくべきだ、と彼は説いた。

知識は力なり。この言葉はベーコンに結びつけられて広まった(同じ考えは彼のいくつかの著作に表れている)。自然を知ることは、自然を支配し、人間の暮らしを良くする力になる。学問は神の栄光と人の生活の改善のためにある、と彼は考えた。
ただし、彼自身は優れた実験家でも数学者でもなかった。同時代のガリレオ・ガリレイの業績の意味を十分に理解せず、数学が自然の理解に果たす役割を軽く見ていた。国王の侍医だったウィリアム・ハーヴェイは、ベーコンは大法官のように哲学を書く、と皮肉ったと伝えられる。

死後に出た未完の物語『ニュー・アトランティス』では、学者たちが協力して自然を研究する「ソロモンの家」という理想の研究機関を描いた。この構想は、30年あまり後に設立された王立協会の設立の人々に大きな影響を与え、彼らはベーコンを自分たちの精神上の父と仰いだ。
1626年の春、ロンドン郊外のハイゲートを馬車で通ったとき、雪で肉を保存できるか試そうと思い立ち、鶏を買って腹に雪を詰めた。そのとき冷えて病にかかり、近くの貴族の屋敷に運ばれて、4月9日に死んだ、と伝えられる。65歳だった。この話を伝えるのは、彼の死から数十年後に書かれた伝記作家オーブリーの記述だけで、本当かどうかは分からない。

『サピエンス全史』は、知識は力なりを近代科学の標語として引き(物語「『サピエンス全史』で読む歴史」)、科学が権力と富に仕えることで発展してきた流れの起点に彼を置いている。観察と実験を積み重ねて知を作り、その知を力に変えるという考え方は、ルネ・デカルトの演繹の方法と並んで、物語「宗教改革と科学革命」の時代の大きな柱になった。