X線の発見
概要
ヴィルヘルム・レントゲンが、黒い紙で覆った真空管を暗室で放電させると、離れた蛍光板が光った。未知の線。「X線」。7週間、研究室に籠もった。12月22日、妻アンナ・ベルタの手を15分、写真乾板に。骨と結婚指輪が写った。「私は自分の死を見た」と彼女は言った。特許を取らなかった。翌年、世界中の病院が使い始めた。1901年、第1回ノーベル物理学賞。
場所
49.79°N 9.95°E · ドイツ
関わった人(1)
ヴィルヘルム・レントゲンAD1845年3月27日–AD1923年2月10日 · 見つけた本文
19世紀の終わり、物理学者たちが夢中になっていたのが陰極線である。空気をほとんど抜いたガラス管の両端に電極を入れ、高い電圧をかけると、管の中を何かが流れ、ガラスが淡く光る。イギリスのクルックス、ドイツのヘルツやレーナルトが、その正体を突き止めようと競っていた。陰極線が実は電子の流れであると分かるのは、1897年のことである。
ヴュルツブルク大学の物理学教授ヴィルヘルム・レントゲン(ヴィルヘルム・レントゲン)は、1845年にドイツのレンネップで生まれ、オランダで育ち、スイスのチューリヒで学んだ。若い頃には学校を退学させられた経験もある。慎重で、人前に出ることを好まない実験家で、50歳のときには大学の学長も務めていた。陰極線の研究には後から加わった一人だった。

1895年11月8日の金曜日の夕方、レントゲンは実験室を暗くし、陰極線の管を黒い厚紙ですっかり覆ってから、電圧をかけた。管の光が外に漏れないことを確かめるためである。そのとき、少し離れた机の上で、白金シアン化バリウムという薬品を塗った紙の板が、ぼんやりと緑色に光っているのに気づいた。陰極線は空気中を数センチしか進まない。光は外に漏れていない。それなのに、何かが厚紙を抜けて飛び出し、板を光らせている。
それから約7週間、レントゲンは実験室にこもった。食事を運ばせ、ときには寝台まで持ち込んだと伝えられる。妻には、人が知ったら気が狂ったと言うようなことをしている、と漏らしたという。彼は手当たりしだいに物を差し入れた。紙、トランプの束、厚い本、木の板、ゴム、薄い金属板。正体の分からない線は、それらを通り抜けて板を光らせた。鉛や厚い金属は通さない。磁石を近づけても曲がらないので、電気を帯びた粒子の流れではない。写真の乾板を感光させ、空気を電気が通りやすい状態にする。鉛の小片を手に持って線を当てたとき、板の上に自分の手の骨の影が浮かび上がるのを見て、彼はぞっとしたという。正体が分からないことを示すために、彼はこれを数学の未知数にならってX線と名づけた。

12月22日、レントゲンは妻のアンナ・ベルタを実験室に呼び、手を写真の乾板の上に置かせて、15分ほど線を当てた。現像した乾板には、指の骨と、薬指にはめた結婚指輪がくっきりと写っていた。これを見た妻は、自分の死を見た、と言ったと伝えられる。生きている人の体の中を、切らずに見た最初の写真の一つである。
12月28日、レントゲンは地元のヴュルツブルク物理医学協会に、「新しい種類の線について」と題する短い論文を提出した。年が明けた1896年の元日、彼はその抜き刷りと何枚かの写真を、ヨーロッパ各地の主な物理学者に郵便で送った。1月5日にはウィーンの新聞が報じ、知らせは電信で世界を駆けめぐった。体を透かす光は、たちまち新聞の一面を飾った。1月23日、レントゲンはヴュルツブルクで唯一の公開講演を行い、解剖学者ケリカーの手をその場で撮影してみせた。ケリカーがこの線をレントゲン線と呼ぼうと提案すると、聴衆は喝采した。ドイツ語の国々や日本で、いまもX線の写真をレントゲンと呼ぶのはそのためである。
医学への応用は、驚くほど速かった。1896年の初めのうちに、ヨーロッパとアメリカの病院で、骨折や、体に残った弾丸、子どもが飲み込んだ硬貨を撮影し始めた。日本でも、その年のうちに追試が行われている。戦場にもX線の装置が運ばれ、第一次世界大戦では、マリ・キュリーがX線の装置を積んだ車を仕立てて前線の病院を回り、負傷兵の体の中の弾片を探した(第一次世界大戦)。X線の発見は物理学そのものも動かした。翌1896年、フランスのベクレルは、X線と蛍光との関係を調べる中で、ウランが自ら目に見えない線を出していることを見つけ、それがキュリー夫妻の放射能の研究へとつながっていく(ラジウムの発見)。

危険が知られるまでには時間がかかった。初期の技師や医師は、装置を調節するために自分の手を何度も線にさらした。皮膚が焼けただれ、やがて癌になり、指を、腕を失う人が続いた。トーマス・エジソンの助手として蛍光の実験を繰り返したクラレンス・ダリーは、両腕を失った末に1904年に亡くなり、X線による最初の犠牲者の一人とされる。ハンブルクの病院の庭には、X線と放射線の研究と治療のために命を落とした人々を記念する碑が立ち、各国の多くの名が刻まれている。
レントゲンは、この発見で特許を取らなかった。発見は人類のものだと考えたと伝えられる。1901年、彼は第1回のノーベル物理学賞を受け(ノーベル賞の始まり)、賞金はヴュルツブルク大学に寄付した。授賞式でも講演をしなかった。その後ミュンヘン大学に移ったが、第一次世界大戦後の激しいインフレで蓄えを失い、晩年は暮らしにも苦労したという。1923年2月10日、ミュンヘンで、77歳で亡くなった。遺言により、彼の手紙の多くは焼かれた。

レントゲンが見た緑の光から、病院の撮影装置や、体を輪切りにして見るCTの装置、空港の手荷物の検査、物質の結晶の並びを調べる方法まで、多くの技術が生まれた。体を開かずに中を見るという、それまで誰も想像しなかったことが、ある金曜日の夕方の暗い実験室から始まったのである。