張仲景
概要
一族の三分の二を疫病で失い、その経験から『傷寒雑病論』を書いた。病の段階と処方を結びつける考え方が、漢方の骨格になる。
関わったできごと(1)
『傷寒論』AD200年頃 · 著者本文
張仲景について確かに分かることは、驚くほど少ない。後漢の歴史を記した『後漢書』にも、三国時代の『三国志』にも、彼の伝は無い。仲景は字(あざな)で、名は機と伝えられ、南陽郡(いまの河南省南陽のあたり)の人とされる。生まれたのは150年ごろ、死んだのは219年ごろと推定されているが、どちらも確かな記録によるものではない。長沙の太守(郡の長官)を務めたという話も、宋の時代以降の書物に出てくるもので、裏付けは無い。

彼について語れることの多くは、自分の著書に付けた序文から来ている。そこに、この本を書いた理由が書かれている。
張仲景の一族は大きく、200人あまりがいた。ところが、建安の元号が始まった196年から10年もたたないうちに、その3分の2が死んだ。そして死んだ者のうち10人に7人は、傷寒によるものだった。傷寒とは、寒さに傷つけられて起こると考えられた急性の熱病で、いまでいえばさまざまな感染症を含む言葉である。
時代は、後漢の末の大乱のさなかだった。184年の黄巾の乱の後、各地の軍閥が争い、都は焼かれ、人びとは流民となって移動した。戦乱と飢饉と疫病は、互いに重なって広がる。同じ建安年間には、建安文学の詩人たちの何人もが疫病で命を落とし、曹操の子の曹植は、家々に嘆きの声が満ち、一家全滅の家もあると疫病の惨状を書き残している。
序文で張仲景は、当時の医者たちを厳しく批判している。名医の技を学んで深めようとせず、家に伝わる処方を守るだけで、患者を前にしても手首の脈をきちんと取らず、わずかな時間話しただけで薬を出す。人の命を軽んじているのは、医者ばかりではない。世の人びとも、権勢と名声を追いかけることには熱心なのに、自分の体をいたわる医術には無関心だ、と嘆いている。
だから彼は、古い医学の書物を学び直し、多くの処方を集め、自分の経験と合わせて一つの本にまとめた。それが『傷寒雑病論』16巻である(『傷寒論』)。
この本の新しさは、病を時間の中でとらえたところにある。熱病は、寒気と発熱に始まり、やがて熱がこもり、さらに進めば体の力が衰えていく。張仲景は、こうした経過を六つの段階に分けた(太陽・陽明・少陽・太陰・少陰・厥陰)。そして、それぞれの段階で現れる脈の様子と症状の組み合わせを示し、その組み合わせごとに処方を結びつけた。同じ病でも段階が違えば薬は違い、違う病でも症状の組み合わせが同じなら同じ薬を使う。病名から薬を決めるのではなく、目の前の患者の状態から薬を決めるというこの考え方が、のちの漢方の骨格になった。
本はそのままの形では残らなかった。戦乱の中で散らばり、3世紀の西晋の宮廷医、王叔和が残った部分を集めて編み直した。その後も写本ごとに形が揺れ、11世紀の北宋の時代に、国の校正の役所が整えて刊行した。このとき、熱病を扱う部分が『傷寒論』、さまざまな慢性の病を扱う部分が『金匱要略』という二つの本に分かれて伝わることになった。
宋以降、この本は医学の古典としての地位を固めていく。明や清の医者たちは競って注釈を書き、張仲景は「医聖」と呼ばれるようになった。日本では、江戸時代の中ごろ、それまでの理屈の多い医学に反発した医者たちが、実地の観察を重んじる張仲景の書に立ち返ろうとし、「古方派」と呼ばれた。葛根湯、小柴胡湯、五苓散など、いまも日本の薬局で売られている漢方薬の多くは、この本に載る処方である。
同じ時代を生きた名医に、外科の技で知られる華佗がいる。華佗が曹操に殺されて医術の書を残せなかったのに対し(華佗の死)、張仲景は役所の記録には名を残さず、書物だけを残した。
張仲景には伝説も多い。長沙の太守だったとき、月に二度、役所の広間で病人を診たことから、薬局で医者が診察することを「坐堂」と呼ぶようになったという話や、冬に耳が凍えて傷ついた貧しい人びとに、羊肉と薬を小麦の皮で耳の形に包んで煮て配ったのが餃子の始まりだ、という話である。どちらも後世の言い伝えで、史実として確かめることはできない。確かなのは、一族を失った一人の医者が、患者をよく見よと書き残し、その本が1800年後も使われているということである(物語「感染症と人類」)。