部分的核実験禁止条約
概要
キューバ危機の10か月後。大気圏内、宇宙、水中での核実験を禁じた。地下は残った。米英ソ。フランスと中国は署名しなかった。「ホットライン」と同じ夏。核の冬に一歩近づいてから、一歩下がった最初。
場所
55.76°N 37.62°E · ロシア
本文
1945年に最初の原爆が爆発してから、核の実験は増える一方だった。アメリカ、ソ連、イギリスは、1963年までに合わせて400回を超える実験を、空の上や海の上で行っていた。1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆の実験では、予想を大きく超える威力の爆発が起き、降ってきた灰を浴びた日本の漁船(第五福竜丸)の乗組員が被曝し、無線長の久保山愛吉が半年後に死んだ。「死の灰」という言葉が広まり、日本では原水爆の禁止を求める署名が3000万を超えた。
放射能は国境を選ばなかった。大気中の実験で舞い上がったストロンチウム90が雨に混じって地上に降り、牛乳を通して子どもの骨や歯にたまっていくことが分かってきた。アメリカのセントルイスでは、市民が子どもの抜けた乳歯を集めて調べる運動が起こり、実験が増えるにつれて歯の中のストロンチウムも増えていることを示した。1955年にはラッセル=アインシュタイン宣言が出され、科学者たちは核兵器の危険を訴えるパグウォッシュ会議を始めた。

1958年、米英ソは実験の一時停止に入り、ジュネーヴで禁止の条約を話し合いはじめた。しかし交渉は、地下の実験をどう見張るかで行き詰まった。地下の爆発は地震と見分けにくく、アメリカとイギリスは相手の国の中に入って調べる査察を求め、ソ連は査察をスパイの口実だとして拒んだ。1961年9月、ソ連は一時停止を破って実験を再開し、10月30日には北極海の島の上空で、史上最大の50メガトン級の水爆を爆発させた。アメリカも実験を再開した。
1962年10月のキューバ危機で、米ソは核戦争の寸前まで行った。深淵をのぞいた二人の指導者、ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフは、そこから引き返す道を探しはじめる。1963年6月10日、ケネディはワシントンのアメリカン大学で「平和の戦略」と呼ばれる演説をした。私たちはみなこの小さな惑星に住み、同じ空気を吸い、子どもの未来を大切に思い、そして死すべき者である、と語り、アメリカは大気中の実験を自分から先にやめると約束した。ソ連の新聞はこの演説を全文載せ、フルシチョフは、ローズヴェルト以来のアメリカの大統領の最も良い演説だと評したという。

7月15日、モスクワで、アメリカのハリマン、イギリスのヘイルシャム、ソ連のグロムイコによる交渉が始まった。全面禁止は査察の問題で通らない。そこで地下を外し、見張りのしやすい大気圏、宇宙空間、水中での実験だけを禁じることにした。地下の実験も、放射性の物質が国境の外に出るものは禁じられた。交渉はわずか10日で仮調印にこぎつけ、8月5日、モスクワでラスク、ヒューム、グロムイコの三国の外相が署名した。アメリカの上院は9月24日に80対19で批准を認め、条約は10月10日に発効した。同じ6月には、米ソの首脳を直接結ぶ通信回線(ホットライン)を開く取り決めも結ばれていた。危機のさなか、米ソの意思の伝達に何時間もかかったことへの反省だった。
ただし、条約は核の時代を終わらせはしなかった。核を持ったばかりのフランスと、まだ持っていなかった中国は加わらなかった。フランスは1974年まで南太平洋のムルロア環礁などで大気中の実験を続け、1964年に最初の実験を行った中国は、条約を米ソが核を独り占めするための企てだと非難し、1980年まで大気中の実験を続けた。米ソは実験を地下に移し、その後の30年でむしろ回数は増えた。1963年から後の地下の実験は、世界で1500回を超える。

それでも、空から降るストロンチウムは目に見えて減っていった。条約は、キューバ危機の後に米ソが初めて結んだ核の取り決めで、のちの核拡散防止条約や戦略兵器の制限の交渉への入口になった。地下も含めたすべての実験を禁じる包括的核実験禁止条約は1996年に採択されたが、アメリカや中国などが批准せず、いまも発効していない。条約が結ばれた3か月半ののち、ケネディはダラスで撃たれた(ケネディ暗殺)。側近たちは、この条約を彼が任期中にもっとも満足した成果の一つとして回想している。