人物

ジョン・スノウ

John Snow
AD1813年3月15日 – AD1858年6月16日(享年45)
イギリス重要度 5

概要

ヨークの労働者の家。14歳で外科医の徒弟。麻酔の草分けで、ヴィクトリア女王の8番目と9番目の出産にクロロホルムを使った(王室が使ったことで麻酔への抵抗が消えた)。コレラは水で伝わると考え、1849年に論文を書き、1854年に地図で示した。菜食で、酒を飲まず、45歳で脳卒中。1866年、政府が彼の説を認めた。ロンドンのパブ「ジョン・スノウ」の前に、取っ手のないポンプが立っている。

関わったできごと(1)

ジョン・スノウのコレラ地図AD1854年9月8日 · 外させた

本文

ジョン・スノウは、1813年3月15日、イングランド北部のヨークに生まれた。父は石炭置き場で働く労働者で、9人の子の長男だった。家はウーズ川がたびたびあふれる低い地区にあり、町で最も貧しい一角の一つだった。

ジョン・スノウの肖像
ジョン・スノウの肖像Wikimedia Commons Public domain

14歳で、ニューカッスルの外科医の徒弟になった。当時、医師になる道は大学だけではなく、開業医の下で何年も見習いをする道があった。1831年から翌年にかけて、アジアから来たコレラがイギリスで初めて大流行した。18歳の徒弟は、炭鉱の町キリングワースへ送られ、患者の世話をした。坑内には便所がなく、坑夫たちは暗い中で手も洗わずに弁当を食べていた。彼はその光景を覚えていて、20年後の議論の中で持ち出している。

1836年、ロンドンに出て医学校で学び、1838年に外科医の資格を、1844年にロンドン大学の医学博士の学位を得た。生涯独身で、若いころから酒を一滴も飲まず、長く菜食を通し、水は煮沸したものを飲んだ。社交は苦手で、話し方は朴訥だったが、ソーホーの診療所で地道に患者を診て暮らした。

名前が最初に知られたのは麻酔の分野だった。1846年10月、アメリカのボストンでエーテルによる麻酔の公開手術が行われた(エーテル麻酔の公開)。知らせはすぐロンドンに届き、12月には最初の手術が行われた。スノウは直後からエーテルの研究に取りかかった。当時の麻酔は、薬を布に垂らして嗅がせるだけで、効きすぎて患者が死ぬことも、効かずに目を覚ますこともあった。彼は、エーテルの蒸気の濃さが温度でどう変わるかを測り、決まった量を吸わせる吸入器を作った。麻酔の量を数字で扱った最初の医師の一人で、イギリスで最初の麻酔の専門医とされる。生涯に施した麻酔は数千回に及んだ。

エーテル麻酔の公開に関わる図版:The First Operation Under Ether - Robert Hinckley
エーテル麻酔の公開Wikimedia Commons Robert Cutler Hinckley · Public domain

1853年4月7日、ヴィクトリア女王が8人目の子レオポルド王子を産むとき、彼はクロロホルムを少しずつハンカチに含ませて嗅がせた(女王の無痛分娩)。1857年の9人目の出産でも同じ役を務めた。女王自身が日記にその効き目を書き残した。出産の痛みを薬で和らげることには、聖書を根拠に、女は苦しんで産むものだと反対する声が根強かったが、女王が使ったことで抵抗は大きく弱まった。

だが彼の本当の関心はコレラにあった。当時の医学の主流は、病気は腐敗したものから立ちのぼる悪い空気、いわゆる瘴気によって起こるという考えだった。スノウは、コレラの症状がまず腸に現れることに注目した。毒が空気から肺に入るのなら、最初は呼吸に異常が出るはずだ。とすれば、病のもとは口から飲み込まれ、腸で増え、患者の排泄物を通じて、水や食べ物に混じってまた別の人の口に入るのではないか。1849年、彼はこの考えを30ページほどの小冊子にまとめ、自費で出した。細菌という考えがまだない時代に、彼は病のもとを、体の中で増える何か生きた粒子のようなものと考えていた。

スノウが洗礼を受けたオール・セインツ教会
スノウが洗礼を受けたオール・セインツ教会Wikimedia Commons Micjohn · Public domain

1854年8月の末、彼の住むソーホーのブロード・ストリートの周りで、数日のうちに数百人がコレラで死んだ(ジョン・スノウのコレラ地図)。彼は死者の家を一軒ずつ訪ね、死者の住所を地図の上に印していった。死者は通りの一つの井戸のポンプの周りに集まっていた。ポンプから離れたところで死んだ人も、調べるとそのポンプの水をわざわざ汲みに来ていた。逆に、ポンプのすぐそばの醸造所の職人たちは、ビールを飲んでいたので誰も死ななかった。9月7日、彼は教区の委員会でポンプを止めるよう訴え、翌日、ポンプの取っ手が外された。流行はそのころすでに下火になりつつあったが、この地図はのちに疫学の象徴になった。

同じ年、彼はもっと大きな調査を進めていた。南ロンドンには、二つの水道会社の水道管が、同じ通りの家々に入り混じって引かれている地区があった。一社はテムズ川の下水が流れ込む市内の下流から水を取り、もう一社は少し前に取水口をずっと上流へ移していた。住む人の暮らし向きや家の造りはほとんど同じで、違うのは飲む水だけである。彼は家ごとにどの会社の水かを確かめて回った。下流の水を飲む家のコレラの死亡率は、上流の水を飲む家の8倍を超えていた。人の手で条件をそろえることのできない時代に、町そのものを実験の場にした調査だった。1855年、彼は小冊子を大幅に増補した第2版を出した。

1854年のロンドンの流行におけるコレラ症例のクラスターを示すジョン・スノウによる元図を、チャールズ・チェフィンズ(英語版)が描き、石版印刷した地図。
1854年のロンドンの流行におけるコレラ症例のクラスターを示すジョン・スノウによる元図を、チャールズ・チェフィンズ(英語版)が描き、石版印刷した地図。Wikimedia Commons John Snow · Public domain

それでも、政府の調査委員会は瘴気説を捨てなかった。1855年、悪臭を出す工場を規制する法案について議会で証言したとき、彼は、悪臭そのものは病気を起こさないと述べた。医学誌はこれを工場主の肩を持つ発言と見て、厳しく批判した。

1858年6月10日、麻酔の本の原稿を書いている最中に脳卒中で倒れ、6月16日に死んだ。45歳だった。医学誌『ランセット』の死亡記事はごく短く、コレラの研究には一言も触れなかった。同じ夏、テムズ川の悪臭が国会議事堂を包む「大悪臭」が起き、ロンドンに大規模な下水道が造られることになった(ロンドンの下水道)。下水道は瘴気を除くためのものだったが、結果として汚水が飲み水に混じらなくなり、コレラを遠ざけた。

ロンドンのブロンプトン墓地にある葬儀記念碑
ロンドンのブロンプトン墓地にある葬儀記念碑Wikimedia Commons Edwardx at English Wikipedia · CC BY 2.5

1866年、ロンドン東部でコレラが流行したとき、調査にあたった統計学者ファーが、汚れた水道の水が原因だと認め、スノウの説は公に裏づけられた。1884年にはロベルト・コッホがコレラ菌を見つけたと発表した。『ランセット』が、死亡記事で彼の業績を伝えなかったことを認め、訂正の記事を載せたのは、彼の死から155年後の2013年のことである。

いま、疫学の教科書の多くはスノウの話から始まる。ソーホーのかつてのブロード・ストリートには、彼の名を冠したパブがあり、その前に取っ手のないポンプの複製が立っている。彼の名を冠した学会では、講演の際にポンプの取っ手を外す儀式をして、彼の仕事を記念している。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1813年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →