概要
ヨークの労働者の家。14歳で外科医の徒弟。麻酔の草分けで、ヴィクトリア女王の8番目と9番目の出産にクロロホルムを使った(王室が使ったことで麻酔への抵抗が消えた)。コレラは水で伝わると考え、1849年に論文を書き、1854年に地図で示した。菜食で、酒を飲まず、45歳で脳卒中。1866年、政府が彼の説を認めた。ロンドンのパブ「ジョン・スノウ」の前に、取っ手のないポンプが立っている。
関わったできごと(1)
ジョン・スノウのコレラ地図AD1854年9月8日 · 外させた本文
1813年3月15日、ヨーク。荷馬車の御者の子、9人兄弟の長男。家はウーズ川の氾濫する地区にあった。14歳、ニューカッスルの外科医ハードキャッスルの徒弟。
1831〜32年、コレラの最初の大流行。18歳の彼は、ダラム州のキリングワース炭鉱へ送られた。坑内は、便所がなく、換気が悪く、坑夫は暗い所で手も洗わずに食べた。彼はそれを覚えていた。
ロンドン、ハンター医学校。1838年、王立外科医師会。1843年、医学博士。禁酒(生涯、酒を飲まなかった)、菜食(後に少し戻した)、蒸留水を飲んだ。独身。
麻酔。1846年12月、ロンドンで最初のエーテル使用(リストンの手術)の直後から、その物理を研究した。温度によるエーテルの蒸気の濃度を計算して、量を調節できる吸入器を作った。それまで、麻酔は「布に垂らして嗅がせる」だった。彼は投与量を数字にした。イギリス最初の専門の麻酔医。5000回以上の麻酔。1853年4月7日、ヴィクトリア女王の8人目(レオポルド王子)の出産に、クロロホルムを15分ごとにハンカチに垂らして嗅がせた(「クロロホルム・ア・ラ・レーヌ」)。1857年、9人目(ベアトリス王女)にも。教会が「女は苦しんで産むべきだ」と言っていた反対が、これで終わった。
コレラ。1849年、『コレラの伝播様式について』(31ページ、小冊子、自費)。「コレラは腸の病気で、症状は腸から始まる。もし毒が肺から入るなら、まず呼吸に来るはずだ。したがって、毒は口から入り、飲み込まれる。患者の排泄物が、水や食物に混ざる」。当時、細菌は知られていない。彼は「毒(ポイズン)」が、生きて増える粒子だと考えた。売れたのは56部。
1854年8月、ソーホー。地図。ポンプの取っ手。同じ年、南ロンドンの2つの水道会社の給水域を、家ごとに調べた(サザーク・アンド・ヴォクソール社はテムズの下水の下流から取水、ランベス社は上流に取水口を移していた)。同じ通りに両社の家が混ざっている地区を選んだ。「自然の実験」。サザーク社の家の死亡率は、ランベス社の8.5倍。1855年、『コレラの伝播様式について』第2版(162ページ)。
反応。政府の委員会は「瘴気説」を採り、彼の説を退けた。1855年、彼は議会の委員会で、悪臭を出す工場(骨を煮る、獣脂を作る)の規制に反対する証言をした(「悪臭そのものは病気を起こさない」)。それで「工場の味方」と誤解された。
1858年6月10日、執筆中に脳卒中。6月16日、死んだ。45歳。『ランセット』の追悼記事は3行で、コレラのことは書かなかった。
1866年、イースト・ロンドンの流行が、彼の説を裏付けた。1884年、コッホがコレラ菌を分離した。1936年、『ランセット』が「1858年の我々の記事は、彼の業績を伝えなかった。訂正する」という記事を出した。
疫学の教科書は、彼から始まる。ロンドン衛生熱帯医学大学院の学生団体は「ジョン・スノウ協会」で、年に一度集まって、ポンプの取っ手を外す儀式をする。