経度法
概要
緯度は太陽か北極星の高さで出る。経度が出ない。地球は1時間で15度回るから、出港地の時刻を持ち歩けば、その場の正午との差で分かる。しかし、揺れて温度も湿度も変わる船で、正確に動く時計がなかった。1707年、シリー諸島で艦隊が座礁し2000人近くが死んだ。1714年、議会が賞金2万ポンドを設けた。天文学者は月の位置から出す方法を推した。時計職人が挑んだ。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
海の上で、自分がいまどこにいるのかを知る。陸の見えない大洋を渡る船にとって、それは命に関わる問いだった。位置は、南北の位置を示す緯度と、東西の位置を示す経度の二つで決まる。
緯度を知るのは、比較的やさしい。正午の太陽の高さ、あるいは夜の北極星の高さを測ればよい。北へ行くほど北極星は高く見え、赤道では水平線の上にある。四分儀やアストロラーベ、十八世紀に入ると八分儀や六分儀といった道具で、熟練した航海士なら緯度をかなりの精度で知ることができた。
難しいのは経度だった。原理そのものは、十六世紀には分かっていた。地球は二十四時間で一回転する。つまり一時間に十五度ずつ回っている。だから、出港した港の時刻を船の上で正確に知ることができれば、その場で太陽が真南に来た瞬間、つまり現地の正午と比べて、時刻の差から経度が分かる。差が一時間なら経度十五度である。問題は、出港地の時刻をどうやって何か月も持ち運ぶかだった。
当時最も正確な時計は振り子時計だったが、船の上では役に立たない。船が揺れれば振り子は乱れて止まる。暑さ寒さで振り子の長さが伸び縮みし、湿気で油が固まり、金属は錆びる。高名な科学者たちも、海の上で正確に動き続ける時計など作れないと考えていた。
もう一つの方法として、天体を時計に使う案があった。月は星々の間を、一時間におよそ自分の直径ぶんずつ東へ動いていく。月とある明るい星との間の角度を測れば、それは空に掛かった巨大な時計の針を読むことに等しい。前もって、出港地の時刻ごとの月と星の位置を表にしておけば、測った角度から出港地の時刻が分かる。月距法と呼ばれるこの方法には、しかし大きな壁があった。月の動きは複雑で、何年も先まで正確に予報できる表がまだ無かった。揺れる甲板で角度を精密に測るのも難しく、測ったあとの計算には何時間もかかった。
経度が分からないため、船乗りは推測に頼るしかなかった。船の速さと針路と経過した時間から、いまの位置を見積もる。だが潮や風に流されれば、見積もりはずれていく。1707年10月、地中海から帰ってきたイギリスの艦隊が、悪天候の中でイングランド南西の沖のシリー諸島の岩礁に乗り上げた。旗艦をはじめ四隻が沈み、提督ショヴェルを含めて千四百人から二千人ほどが命を落とした(数は資料によって異なる)。艦隊は自分たちの位置を見誤っていた。経度だけが原因ではなく、海図の誤りなども重なっていたとする研究もあるが、この事故は経度の問題を人々に強く印象づけた。艦隊の位置がおかしいと進言した水兵が、越権のかどで吊るされたという話が広く伝わっているが、確かな根拠は見つかっていない。
1713年、二人の数学者が、大西洋に一定の間隔で船を並べて停泊させ、決まった時刻に号砲を撃たせて、その音と光で時刻を知らせるという案を出し、議会に請願した。案そのものは実現しようのないものだったが、これをきっかけに議会は委員会を開き、専門家の意見を聞いた。証言に立ったアイザック・ニュートンは、時計で経度を出すには正確な時計があればよいが、船の揺れ、暑さと寒さ、湿り気などのために、そのような時計はまだ作られていない、と述べ、天体の観測による方法に期待を寄せた。
1714年7月、議会は経度法を定めた。海の上で経度を決める実用的な方法を見つけた者に、賞金を与えるという法である。西インド諸島までの航海で試し、経度の誤差が一度以内なら一万ポンド、四十分以内なら一万五千ポンド、三十分以内なら二万ポンド。経度三十分は、赤道の上でおよそ五十六キロメートルにあたる。二万ポンドは、当時の職人の稼ぎの何百年分にもなる途方もない額だった。審査にあたる経度委員会には、王室天文官や海軍の高官、大学の数学の教授らが名を連ねた。天文学者が多く、月距法に心を寄せる人々だった。
賞金の噂は、さまざまな提案を呼び寄せた。まじめな工夫もあれば、荒唐無稽なものもあった。よく知られた珍案に「共感の粉」がある。実は経度法より前から出回っていた話で、傷つけた犬を船に乗せ、その犬を傷つけた刃物を陸に残しておく。決まった時刻に陸で刃物に粉を振りかけると、遠く離れた船の上で犬が痛がって吠えるので、それを時報にするというのである。
答えを出したのは、天文学者ではなく、イングランド北部の村の大工出身の時計職人だった。ジョン・ハリソン(1693〜1776年)は、ほとんど独学で時計作りを学び、木の歯車で狂いの少ない振り子時計を作っていた。彼は経度の賞金を知ると、揺れに強い船の時計の製作に取りかかり、それから四十年あまりをこの仕事に捧げる。1735年に最初の大きな時計を完成させ、それを改良して二台目、三台目を作った。そして1759年、それまでとはまったく違う、手のひらほどの大きさの懐中時計の形をした四台目を完成させた(ハリソンの航海時計)。
1761年から翌年にかけて、この時計はジャマイカへの航海で試された。八十日あまりの航海で、遅れはわずか数秒だった。経度に直せば、賞金の条件を十分に満たす精度である。だが委員会はすぐには賞金を払わなかった。偶然ではないか、ほかの職人にも作れるのか、と条件を次々に付け足した。ハリソンは再試験を受け、時計の仕組みを公開し、複製を作らせることを求められた。老いたハリソンが国王ジョージ三世に訴え、議会が残りの額を与えることを決めたのは1773年である。ハリソンは三年後に亡くなった。
同じころ、月距法も実用になっていた。ドイツの天文学者マイヤーが作った精密な月の運行表をもとに、王室天文官マスケリンが、計算を前もって済ませた表を載せた航海暦を毎年刊行し始めた。最初の版は1767年の暦である。これで、航海士が自分で行う計算は大幅に短くなった。
しばらくは、二つの方法が並んで使われた。月距法は六分儀と暦があれば済み、道具が安い。一方、ハリソンの時計の流れをくむ航海用の精密時計、クロノメーターは、初めは非常に高価だった。それでも、ジェームズ・クックの二度目の太平洋航海に積まれたハリソンの時計の複製は、何年もの航海で狂わず、クックは日誌でその働きをたたえている(クックの太平洋航海)。十九世紀に入るとクロノメーターは安く作られるようになり、どの船にも積まれるようになった。ダーウィンが乗った測量船ビーグル号は、経度を正確に測るために二十台を超えるクロノメーターを積んでいた(ビーグル号の航海)。

経度を測るには、どこを零度とするかを決めなければならない。各国はそれぞれ自国の首都や天文台を基準にしていた。パリ、カディス、ワシントン。1884年、ワシントンで開かれた国際会議で、ロンドンのグリニッジ天文台を通る経線を世界の基準とすることが決まった(本初子午線会議)。フランスは採決を棄権し、その後もしばらくパリを基準にした地図を使い続けた。
経度法は1828年に廃止された。百年あまりの間に、委員会はハリソンをはじめ多くの発明家や天文学者に、合わせて十万ポンドを超える賞金や研究費を分け与えた。ただ一人の発明家が満額の二万ポンドを一度に受け取ったことは、一度もなかった。国が大きな賞金を掲げて、誰にも解けなかった技術の難題を解かせるというやり方は、その後も何度もまねられることになる。