できごと

『解体新書』

Kaitai Shinsho
AD1774年(安永3年)
重要度 5
『解体新書』に関わる図版:Kaitai shinsyo01
Kaitai shinsyo01 Wikimedia Commons Babi Hijau · Public domain

概要

1771年、杉田玄白と前野良沢が小塚原の刑場で腑分けを見て、持っていたオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』の図と同じだと知った。翌日から翻訳を始めた。辞書はなく、良沢が少しオランダ語を読めるだけ。「鼻はフルヘッヘンドしている」を「うずたかい」と解くのに1日。3年半。「神経」「軟骨」「動脈」はこのとき作られた言葉。蘭学の始まり。

場所

江戸
35.69°N 139.75°E · 日本・東京都(江戸城=現在の皇居)

関わった人(2)

杉田玄白AD1733年10月20日–AD1817年6月1日 · 訳した前野良沢AD1723年–AD1803年10月17日 · オランダ語

本文

1771年、明和8年の3月4日、江戸の北のはずれ、小塚原の刑場で、処刑された女囚の腑分け、つまり解剖が行われることになった。「青茶婆」と呼ばれた50歳ほどの女だったという。知らせを受けた小浜藩の医者杉田玄白は、同じ志の医者たちを誘い、見学に出かけた。玄白は数えで39歳。誘いに応じたのは、中津藩の医者前野良沢と、小浜藩の同僚の中川淳庵らだった。良沢は数えで49歳になっていた。

玄白の懐には、一冊のオランダ語の解剖書があった。ドイツの医師クルムスの解剖書をオランダ語に訳したもので、日本では『ターヘル・アナトミア』の名で知られる。玄白は藩に頼んで、この本を買い求めたばかりだった。中身は読めない。だが精密な図が、従来の漢方の医書に描かれた体の中の図とまるで違っていることには気づいていた。驚いたことに、良沢も同じ本を持ってきていた。長崎で手に入れたものだった。

序図(国立科学博物館の展示)
序図(国立科学博物館の展示)Wikimedia Commons The original uploader was PHG at English Wikipedia . · Public domain

腑分けをしたのは、刑場で働く90歳ほどの老人だった。老人は手慣れた様子で体を開き、これが肺、これが肝臓、これが腎臓と指し示した。漢方の医書に記された臓器の形や配置とは違っていたが、オランダの本の図とは、一つ一つが少しも違わなかった。玄白らは、昔から伝わる医書がいかに実際と違っていたかを思い知らされた。刑場に転がる古い骨も拾って見比べたが、これも本の図のとおりだった。

帰り道、三人は語り合った。医者として主君に仕えながら、体の中の本当の姿を知らずにいたのは恥ずべきことだ。この本を訳せば、医術に大きな益があるだろう。良沢は、自分も前からオランダの本を読みたいと思っていた、皆で力を合わせて読もう、と応じた。翌日から、築地鉄砲洲にあった中津藩の屋敷の良沢の住まいに集まり、翻訳が始まった。

巻の一(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の一(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)Wikimedia Commons Sugita Genpaku / Nakagawa Jun'an / Maeno Ryōtaku · Public domain

辞書は無かった。仲間の中でオランダ語を多少なりとも知っていたのは良沢だけで、それも青木昆陽に学び、長崎で短い期間学んだ程度だった。玄白はアルファベットさえ知らなかった。玄白は後年、櫓も舵も無い船で大海に乗り出したようだった、と振り返っている。一行を訳すのに一日かかることもあったという。

そうした苦労を象徴する話として、「フルヘッヘンド」の逸話が知られている。鼻について書かれた箇所に出てくるこの語の意味が分からず、皆で考えあぐねた。良沢の持っていた簡単な語釈の本に、木の枝を断つと、その跡がフルヘッヘンドする、庭を掃くと塵が集まってフルヘッヘンドする、とあった。そこから、これは盛り上がる、うずたかいという意味だと気づき、鼻は顔の中でうずたかく盛り上がったものだと読み解いた、というのである。ただし、実際の原書の鼻の項目にはこの語が見当たらないとも指摘されており、玄白の記憶違いか、苦労を伝えるための脚色ではないかとも言われる。

巻の二(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の二(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)Wikimedia Commons Sugita Genpaku / Nakagawa Jun'an / Maeno Ryōtaku · Public domain

訳は、月に何回か集まって進められた。玄白は会合の夜ごとに、その日に分かったことを書き留めて訳文にまとめた。稿を改めること11回に及んだという。1773年、玄白らは世の反応を確かめるため、まず要点の図を『解体約図』として出した。そして翻訳を始めてから3年あまりたった1774年、安永3年8月、『解体新書』が刊行された。本文4巻と図の1巻からなる。版元は江戸の須原屋市兵衛、序文は長崎のオランダ通詞の吉雄耕牛が書いた。

刊行に際しては、幕府の咎めを受けないかという心配もあった。玄白は、つてをたどって将軍家や公家にも本を献上し、無事に世に出ることができた。時は老中田沼意次が実権を握る田沼時代で、比較的自由な空気があった。同じ時代には、平賀源内がオランダの書物から学んで、静電気を起こすエレキテルを修理し、見せ物にしている。

田沼時代に関わる図版:田沼意次の肖像画
田沼時代Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

本の扉には、杉田玄白が訳し、中川淳庵が校し、石川玄常と桂川甫周が加わった、という名が並んでいた。翻訳の中心にいた前野良沢の名は無かった。理由ははっきりしない。訳が不十分なまま名を出すことを良沢が嫌ったとも、学問の名声を求めないと誓っていたとも言われる。良沢はその後も、ひたすらオランダ語の研究を続けた。

『解体新書』は、新しい言葉も生み出した。日本語にも漢語にも無い体の部分を表すために、訳者たちは漢字を組み合わせた。神気の通る筋という意味の「神経」はその代表で、「軟骨」もこのときに作られた言葉とされる。これらの訳語は、のちに中国でも使われるようになった。

巻の三(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)
巻の三(佐賀大学地域学歴史文化研究センター所蔵)Wikimedia Commons Sugita Genpaku / Nakagawa Jun'an / Maeno Ryōtaku · Public domain

『解体新書』をきっかけに、オランダ語の書物を通して西洋の学問を学ぶ蘭学が大きく広がった。玄白と良沢に学んだ大槻玄沢は、二人の名から一字ずつをもらって名乗り、蘭学の入門書を著した。1796年には、初めての本格的な蘭和辞書『ハルマ和解』ができた。やがて蘭学は、医学だけでなく、天文、地理、化学へと広がり、幕末の緒方洪庵の適塾で学んだ福沢諭吉らを通じて、明治の西洋の学問の受け入れへとつながっていく。

1815年、83歳になった玄白は、翻訳の日々を回想して『蘭学事始』を書いた。この写本は長く埋もれていたが、明治の初め、1869年に福沢諭吉らの手で刊行された。福沢は、先人の苦労を読んで涙を流したと書いている。小塚原の刑場の跡近くには、いまも腑分けを記念する碑が建っている。

動画(1)

114 宝暦・天明期文化①国学・洋学 日本史ストーリーノート第12話Historia Mundi ムンディ先生高校の日本史を200講で通す講義の第114講「宝暦・天明期文化①国学・洋学」

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