スクタリの野戦病院
概要
クリミア戦争。イスタンブール対岸の兵舎病院に、38人の看護婦を連れて着いた。傷病兵は床に並び、下水が床下に溜まり、換気がなく、包帯も食事も足りない。死因の大半は戦傷ではなく、チフス、コレラ、赤痢だった。彼女は掃除と換気と洗濯と食事を整えさせ、そして数を数えた。死因別の死亡者を月ごとに示す「鶏頭図」を描き、政治家に見せた。統計を説得の道具にした最初期の例。
場所
41.02°N 29.01°E · トルコ・イスタンブール
関わった人(1)
フローレンス・ナイチンゲールAD1820年5月12日–AD1910年8月13日 · 率いた本文
1853年、ロシアとオスマン帝国の間で戦争が始まった。翌年、ロシアが南へ勢力を広げるのを恐れたイギリスとフランスがオスマン帝国の側について参戦し、戦いの主な舞台は黒海に突き出したクリミア半島に移った(クリミア戦争)。イギリス軍は、ロシアの軍港セヴァストポリを攻め落とそうと、半島に上陸した。
戦場で傷ついたり病に倒れたりした兵は、船で黒海を渡り、オスマン帝国の都イスタンブールの対岸、ボスポラス海峡のアジア側にあるスクタリ(いまのユスキュダル)の病院へ送られた。1854年の秋、新聞『タイムズ』の従軍記者が、その惨状を本国へ書き送った。包帯がない。医師が足りない。傷病兵は手当ても受けられずに放っておかれている。フランス軍には修道女たちが看護にあたっているのに、イギリスにはいないのか。記事は、汽船と電信のおかげで、かつてない速さでロンドンの読者に届いた。世論は沸き立った。

陸軍の戦時大臣シドニー・ハーバートは、旧知の女性に手紙を書き、看護婦の一団を率いて現地へ行ってほしいと頼んだ。その女性がフローレンス・ナイチンゲール(1820〜1910年)である。裕福な家に生まれ、高い教育を受けながら、当時の上流の娘には考えられない看護の道を選び、家族の強い反対を押し切って、ドイツの看護の施設で学び、ロンドンの婦人病院の監督を務めていた。
1854年10月21日、ナイチンゲールは三十八人の看護婦を率いてロンドンを発った。病院で働いていた者と、英国国教会やカトリックの修道会から加わった者たちである。11月4日、一行はスクタリの兵舎病院に着いた。

病院は、オスマン軍の巨大な兵舎を転用したものだった。廊下や病室には傷病兵が床にじかに並べられ、その列をつなぐと六キロメートルにもなったと言われる。建物の下では下水が詰まり、溜まった汚物から立ちのぼる臭気が床板の隙間から病室に上がってきた。窓は閉ざされて風が通らず、ネズミやシラミがはびこっていた。石鹸も、包帯も、着替えのシャツも、食器も、まともな食事も足りなかった。
そして、兵たちを殺していたのは、敵の弾よりも病だった。発疹チフス、腸チフス、コレラ、赤痢。傷を負って運ばれてきた兵が、病院で病にかかって死んでいく。

軍の医官たちは、女の看護婦などに用はないと、初めは一行を冷たく扱った。ナイチンゲールは、命じられるまで手を出さないよう看護婦たちに言い含めて待った。そして、負傷者が次々に運び込まれて病院が手に負えなくなると、彼女たちは働き始めた。
ナイチンゲールがまず取り組んだのは、物を揃えることだった。軍の補給の手続きを通すと、品物が届くまでに何週間もかかる。彼女は『タイムズ』が集めた募金と自分の資金を使い、イスタンブールの市場で、シャツやシーツ、石鹸、食器、食べ物を自分で買い入れた。看護婦たちに病室を掃除させ、洗濯場を作ってシーツや衣類を洗わせた。病人のための調理場を整え、のちにはロンドンの有名な料理人アレクシス・ソワイエが駆けつけて、軍の食事の作り方そのものを改めた。夜には、ランプを手に病室の長い列を見回った。「ランプを持った貴婦人」という彼女の姿は、新聞を通じてイギリス中に広まった。

ナイチンゲールは、記録を付けることも始めた。入院した者、死んだ者、その死因を、きちんと書き留めていく。それまで軍の病院の記録はずさんで、同じ死者が何度も数えられたり、まったく数えられなかったりしていた。
それでも、1855年の初めの冬、スクタリの病院の死亡率は恐ろしいほど高くなった。入院した兵の四割以上が死んだ月もあった。状況を変えたのは、1855年3月にロンドンから送られてきた衛生委員会だった。委員会は、詰まった下水を掃除させ、水道の水源に死んだ馬が横たわっていたのを取り除き、建物に風を通す穴を開けさせた。すると、死亡率は急に下がり始め、数か月のうちに、わずかな値にまで落ちた。

ナイチンゲール自身は、当時、病の原因は汚れた空気と栄養の不足だと考えていた。だが、戦争が終わって帰国したあと、統計の専門家ウィリアム・ファーの助けを借りて記録を分析し直した彼女は、スクタリで多くの兵が死んだのは、何よりも病院そのものの不衛生のためだったと確信するに至った。自分が懸命に取り組んだ看護よりも、下水の掃除のほうが多くの命を救っていた。彼女はその事実から目をそらさず、それを衛生の改革を進める力に変えた。
1856年の夏、ナイチンゲールは「ミス・スミス」という偽名を使って、人目を避けるように帰国した。国民的な英雄になっていたが、歓迎の式典はすべて断った。そして、軍の衛生を根本から改めるための仕事に取りかかった。1858年には、イギリス陸軍の健康と病院の運営についての長大な報告をまとめている。

その報告に添えられた図がよく知られている。円を月ごとの扇形に分け、それぞれの扇の大きさで、その月の死者の数を表した図である。扇は色で塗り分けられ、防げたはずの感染症による死者、戦傷による死者、そのほかの原因による死者が示されている。感染症の部分が、戦傷の部分をはるかに圧倒していた。兵士たちは敵に殺されたのではなく、病院で死んでいたのである。日本では、その形から「鶏頭図」と呼ばれることもある。
数字の並んだ表を出しても、忙しい政治家たちは読まない。目で見て一瞬で分かる形にしなければならない。ナイチンゲールはそう考え、この図を女王や大臣たちに見せて、軍の衛生の改革を迫った。数字を集め、分析し、それを人を動かす絵にする。統計を政治の説得の道具に使った、最も早い例の一つである。1859年、彼女はイギリスの王立統計協会で、初めての女性の会員に選ばれた。人の生と死を数えて社会を知ろうとする試みは、二百年前のロンドンの死亡表に始まっていたが(死亡表と統計のはじまり)、彼女はそれを、命を救うための武器にした。

帰国してまもなく、ナイチンゲールは体を壊した。クリミアでかかった熱病の後遺症とみられ、以後五十年以上、ほとんど床についたまま過ごした。それでも、彼女はその寝床から、膨大な手紙と報告を書き続けた。陸軍の衛生の改革、インドの公衆衛生、換気と日当たりを重んじた病院の設計。1859年には、家庭で病人を世話する人々のための手引き『看護覚え書』を出し、新鮮な空気、光、暖かさ、清潔さ、静けさ、そして食事に気を配り、患者の体が回復しようとする力を無駄に使わせないことこそ看護だと説いた。1860年には、ロンドンの病院に看護婦を育てる学校を開いた。看護を、誰にでもできる下働きから、訓練を積んだ専門の職に変えたのである。
同じころ、北イタリアの戦場で負傷兵の惨状を目にしたスイスの実業家が、戦場の傷病兵を敵味方なく救う団体を作ろうと呼びかけていた(『ソルフェリーノの思い出』)。それが赤十字になる。のちに赤十字は、看護に功績のあった人に、ナイチンゲールの名を冠した記章を贈るようになった。
1910年、ナイチンゲールは九十歳で亡くなった。国の大寺院に葬ろうという申し出は、本人の遺志で辞退され、家族の墓に葬られた。墓には、名前の頭文字と生没年だけが刻まれている。彼女の誕生日の5月12日は、いま「看護の日」として世界で記念されている。