概要
歯科医。入れ歯を売るために、抜歯の痛みを消したかった。化学者ジャクソンの助言でエーテル。1846年10月16日の公開のあと、「レテオン」という名で香料を混ぜて正体を隠し、特許を取ろうとした。誰が最初かの争い(ジャクソン、ウェルズ、そして4年前に使っていたクロフォード・ロング)が20年続いた。訴訟で財産を失い、49歳、ニューヨークのセントラル・パークで倒れて死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
エーテル麻酔の公開AD1846年10月16日 · 吸わせた本文
1819年8月9日、マサチューセッツのチャールトン。農家。商店の店員、そして印刷、そして詐欺まがいの商売(後の裁判で、いくつもの負債と、偽名の記録が出た)。1840年、ボルティモアの歯科学校。1842年、ホレス・ウェルズと組んで、ボストンで歯科(入れ歯の宣伝。「痛みなく歯を抜く」と広告した)。組合は1年で解消。
1844年、ハーヴァード医学校に入った(学位は取らなかった)。下宿の主人の娘エリザベス・ホワイトマンと結婚(彼女の親は「歯医者は職人だ」と反対し、モートンが医師になると約束した)。
化学者チャールズ・ジャクソン(ハーヴァードの教授、地質学者、エマソンの義兄)に、歯の痛みを消す方法を相談した。ジャクソンは「硫酸エーテルを歯茎に垂らせば局所が麻痺する」と言った。モートンは吸わせることを考えた。
1846年夏、犬で試した(金魚鉢に入れて)。自分で吸って、7、8分意識を失った。9月30日の夜、エベン・フロスト(音楽教師)が歯の痛みで来た。催眠術を頼んだ。モートンはエーテルを染ませたハンカチを嗅がせて、臼歯を抜いた。フロストは「何も感じなかった」と署名した。翌日の『ボストン・デイリー・ジャーナル』に載った。
外科医ヘンリー・ビゲローが読んで、父(ハーヴァードの教授)に伝え、ジョン・コリンズ・ウォーレンに公開の機会を作らせた。
1846年10月16日。モートンは、器具屋に作らせたガラス球の吸入器を待って、15分遅れて着いた。ウォーレンは待っていた。「あなたの患者の用意はできている」。20歳の印刷工ギルバート・アボットの、顎の下の血管腫。5分ほどの手術。患者は動かず、うめきもしなかった。ウォーレンが「諸君、これはインチキではない」。
その後。モートンはエーテルに香料(オレンジ油)を混ぜ、「レテオン」(レテ、忘却の川から)と名づけて、中身を隠し、11月12日に特許を取った。医学界は、痛みを消す方法を秘密にして金を取ることを、非難した。マサチューセッツ総合病院は使用料を拒み、モートンは折れて、成分を明かした。
争い。ジャクソンが「私が本質を教えた。彼は道具にすぎない」と、フランス科学アカデミーに主張した。ウェルズが「私が笑気で1844年に先にやった」と言い、1848年、自殺した。ジョージアのクロフォード・ロングが1849年に「私は1842年に4回やった」と証拠(帳簿と証言)を出した。
議会。1846年から、「麻酔の発見者に10万ドルの報酬を」という法案が何度も出て、そのたびに、誰が発見者かで揉めて、通らなかった。モートンは20年、この争いに人生を費やした。歯科の仕事をやめ、財産を失い、家族を農場に置いて、ワシントンに通った。
1868年7月、ニューヨーク。ジャクソンを擁護する記事に反論するために来ていた。真夏の熱波。妻と馬車でセントラル・パークを走っている途中、突然、馬車を降りて、池に頭を浸けて、倒れた。7月15日、死んだ。49歳。脳卒中。
ボストンのマウント・オーバーン墓地の墓碑(マサチューセッツ総合病院の医師たちが建てた)。「ウィリアム・T・G・モートン。吸入麻酔の発明者にして開示者。彼以前、あらゆる時代において、手術は苦痛であった。彼によって、外科の痛みは防がれ、消し去られた。彼以後、科学は痛みを制御する」。
ジャクソンは1873年、精神を病んで、施設に入り、1880年に死んだ。皮肉なことに、彼はモートンの墓の前で発作を起こしたと伝えられる。