ウィリアム・モートン
概要
歯科医。入れ歯を売るために、抜歯の痛みを消したかった。化学者ジャクソンの助言でエーテル。1846年10月16日の公開のあと、「レテオン」という名で香料を混ぜて正体を隠し、特許を取ろうとした。誰が最初かの争い(ジャクソン、ウェルズ、そして4年前に使っていたクロフォード・ロング)が20年続いた。訴訟で財産を失い、48歳、ニューヨークのセントラル・パークで倒れて死んだ。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
エーテル麻酔の公開AD1846年10月16日 · 吸わせた本文
ウィリアム・トーマス・グリーン・モートンは1819年8月9日、アメリカのマサチューセッツ州チャールトンの農家に生まれた。家計が苦しく、若くして家を出て、商店の店員や印刷の仕事など職を転々とした。のちに伝記を書いた人々は、このころの彼が各地で借金や怪しげな取引の跡を残していたことを明らかにしている。1840年、ボルティモアの歯科医学校に入ったが、卒業はしなかったとされる。

19世紀の半ば、歯を抜くことも、手足を切り落とすことも、患者が目を覚ましたまま行われていた。外科医は速さを誇り、患者は押さえつけられて叫んだ。歯科医にとって、痛みは商売の大きな妨げだった。抜歯の痛みを恐れて、人々は虫歯を抜いて入れ歯にすることをためらったのである。
1842年ごろ、モートンはコネティカットの歯科医ホレス・ウェルズと組んで、ボストンで入れ歯の商売を始めたが、この組み合わせは長続きしなかった。ウェルズは1844年、見世物で笑気ガス(亜酸化窒素)を吸った男が、足をけがしても痛がらないのを見て(笑気ガスの見世物)、自分の歯を笑気を吸って抜かせた。翌1845年、ウェルズはボストンのハーヴァード医学校で公開の実験を行ったが、患者が声を上げたため、見物の学生たちにペテン師と笑われて終わった。モートンはその場に立ち会っていた。

1844年、モートンはハーヴァード医学校の講義に通い始め、エリザベス・ホイットマンと結婚した。歯医者を職人と見る彼女の家族に、医者になると約束していたという。そのころ、ハーヴァードで講じていた化学者チャールズ・ジャクソンから、硫酸エーテルを歯に塗ると痛みが和らぐことを教えられた。エーテルは、学生たちが吸って酔う遊びに使っていた薬品でもあった。モートンはこれを吸わせることを考えた。
1846年の夏、モートンは自宅で犬にエーテルを吸わせ、自分でも吸って試した。9月30日の夜、歯の痛みに苦しむ音楽教師エベン・フロストが訪ねてきた。モートンはエーテルを染み込ませたハンカチを嗅がせて臼歯を抜いた。目を覚ましたフロストは、何も感じなかったと証言する書面に署名した。この話は翌日のボストンの新聞に載った。
記事を読んだ若い外科医ヘンリー・ビゲローの仲立ちで、マサチューセッツ総合病院の外科の長ジョン・コリンズ・ウォーレンが、手術でエーテルを試す機会を与えた。1846年10月16日、病院の階段教室で、患者の印刷工ギルバート・アボットの首の腫瘍を取る手術が予定された(エーテル麻酔の公開)。モートンは、職人に作らせたガラスの吸入器の仕上げを待って遅れて着いた。エーテルを吸ったアボットは眠り、ウォーレンが腫瘍を切り取るあいだ、ほとんど動かなかった。手術が終わると、ウォーレンは見物の医師たちに、諸君、これはペテンではない、と言ったと伝えられる。痛みのない手術の知らせは、数週間のうちに大西洋を渡り、ロンドンやパリの病院でもエーテルが使われ始めた。

だがモートンは、この発見で金をもうけようとした。エーテルに香料などを混ぜて匂いを変え、「レテオン」(ギリシア神話の忘却の川レテにちなむ)という名をつけて中身を隠し、1846年11月、ジャクソンとともに特許を取った。病院の医師たちは、人の苦しみを取り除く方法を秘密にして料金を取ることに強く反発し、モートンは中身がエーテルであることを明かさざるを得なかった。特許はほとんど守られず、彼に富をもたらさなかった。
やがて、誰が麻酔の発見者かをめぐる争いが始まった。ジャクソンは、エーテルの効き目を教えたのは自分で、モートンはその指示に従っただけだと、フランスの科学アカデミーなどに訴えた。ウェルズは、笑気を使った自分こそが先だと主張したが、心を病み、1848年に獄中で命を絶った。さらに1849年には、ジョージア州の医師クロフォード・ロングが、1842年に患者にエーテルを吸わせて首の腫れ物を取っていたことを公表した。ロングは記録を残していたが、発表していなかったのである。
議会では、麻酔の発見者に10万ドルの報奨を与える案が何度も出されたが、誰が発見者なのかで争いが続き、結局実らなかった。モートンは20年にわたってこの争いに力を注ぎ、歯科の仕事を離れ、財産を失った。南北戦争では北軍の野戦病院で負傷兵にエーテルを施したと伝えられる。
1868年7月、モートンは、ジャクソンを発見者とする雑誌の記事に反論するためにニューヨークへ来ていた。ひどく暑い夏だった。妻と馬車でセントラル・パークを走っていたとき、彼は突然馬車を飛び降りて池に頭を浸し、そのまま倒れた。7月15日、病院で死んだ。48歳だった。脳卒中だったとされる。
ボストンのマウント・オーバーン墓地にある彼の墓碑には、吸入による麻酔の発明者にして開示者、この人の前には手術はいつも苦痛だった、この人によって手術の痛みは防がれ取り除かれた、という意味の言葉が刻まれている。ジャクソンはのちに心を病んで施設に入り、1880年に死んだ。モートンの墓の前で取り乱したのがきっかけだったという話もあるが、確かではない。
麻酔の発見は、一人の手柄に帰すことができない。ロングは最初に使い、ウェルズは吸入麻酔の考えを公に試し、ジャクソンは薬品の知識を与えた。それでもモートンが、病院の大勢の医師の前で効き目を示したことが、麻酔を世界の外科に広める決め手になった。翌年にはスコットランドでクロロホルムが使われ始め、のちにはヴィクトリア女王の出産にも用いられた(女王の無痛分娩)。10月16日の手術が行われた階段教室は、いまも「エーテル・ドーム」と呼ばれ、病院の中に残されている。