マックス・プランク
概要
キール。法学者の家。物理の教授に「もう発見することは残っていない」と言われて、物理を選んだ。熱力学。1900年、量子。自分の仮説を20年疑った。ベルリン大学、カイザー・ヴィルヘルム協会の会長。アインシュタインをベルリンに呼んだ。長男は第一次大戦で死に、次男はヒトラー暗殺計画で1945年に処刑された。ナチスを嫌い、ドイツを離れなかった。「新しい真理は、反対者を説得して勝つのではない。反対者が死に絶えて勝つ」。
所属
ドイツ帝国関わったできごと(2)
プランクの量子仮説AD1900年12月14日 · 発表したアインシュタインの奇跡の年AD1905年 · 認めた本文
1858年4月23日、北ドイツの港町キールで生まれた。父は法学の教授で、祖父と曾祖父は神学の教授という、学者と牧師を代々出してきた家である。9歳のとき、父がミュンヘン大学に移ったのに伴ってミュンヘンで育った。勤勉で、規律正しく、義務を重んじる気風は、生涯の彼を形づくった。ピアノの腕は演奏家を目指せるほどで、歌曲や小さな歌劇も作った。音楽と物理のどちらに進むか迷った末に、物理を選んだ。

ミュンヘン大学の物理学の教授ヨリーは、物理学はほとんど完成していて、あとは細かいところを埋めるだけだから、若者が進む分野ではないと忠告したという。プランクは、新しいことを発見したいのではなく、すでにある基礎を理解したいのだと答えたと伝えられる。皮肉にも、その彼が、物理学の基礎を根底から覆す扉を開くことになる。
彼が若いころから打ち込んだのは熱力学、とくに、熱は熱い方から冷たい方へしか流れないという第二法則と、それを数で表すエントロピーの研究だった。キール大学の教授を経て、1889年、ベルリン大学で大物理学者キルヒホッフの後を継いだ。そして1894年ごろから、熱した物体が出す光の色と強さの関係、いわゆる黒体放射の問題に取り組み始めた。溶鉱炉の温度を光の色で測る技術ともかかわる問題で、ベルリンの国立の研究所では精密な測定が進んでいた。

1900年10月、彼は実験の結果にぴたりと合う式を見つけた。しかし、その式がなぜ成り立つのかを説明しようとすると、どうしても奇妙な仮定が必要になった。光のエネルギーは連続した量ではなく、振動数に比例する、それ以上分けられない小さな塊(量子)でしかやり取りされない、という仮定である。1900年12月14日、彼はベルリンの物理学会でこれを発表した(プランクの量子仮説)。比例の係数は、のちにプランク定数と呼ばれる。彼自身、後にこれを「やけっぱちの行為」だったと振り返っている。古典物理学を信じる彼にとって、量子は計算のための便法にすぎず、いずれ取り除けるものだと考えていた。
その仮定を本気で受け止めたのは、若い世代だった。1905年、アインシュタインは、光そのものが粒のような量子でできていると唱えた(アインシュタインの奇跡の年)。プランクはこの大胆な説には長く懐疑的だったが、同じ年のアインシュタインの相対性理論の価値はいち早く認め、学術誌の編集者として世に送り出した。1913年には、物理化学者ネルンストとともにチューリヒまで出かけてアインシュタインを口説き、ベルリンへ招いた。やがてニールス・ボーアの原子模型(ボーアの原子模型)や、1920年代の量子力学が生まれ、プランクの小さな仮定は20世紀の物理学の土台となった。1918年度のノーベル物理学賞が彼に贈られた。

ベルリンでの彼は、ドイツの物理学界の重鎮として、大学の学長、プロイセン科学アカデミーの書記、ドイツ物理学会の会長などを歴任し、1930年からは研究機関を束ねるカイザー・ヴィルヘルム協会の会長を務めた。一方で、愛国心の強い保守的な人でもあり、1914年、第一次世界大戦の初めには、ドイツ軍の行動を擁護する知識人93人の声明に名を連ねた。後に彼はこの署名を悔やんでいる。
私生活は悲劇の連続だった。1909年に最初の妻を亡くした。長男カールは1916年、ヴェルダンの戦いで戦死した。双子の娘は二人とも、1917年と1919年にそれぞれ出産の際に亡くなった。
1933年、ナチスが政権を握ると(ナチスの政権掌握)、ユダヤ人の学者たちが次々に職を追われた。その年の5月、プランクはヒトラーに面会し、化学者フリッツ・ハーバーのような国に尽くしたユダヤ人の科学者を追放すればドイツの科学が損なわれると訴えた。ヒトラーは激昂してまくしたて、話は通じなかったと、プランクは後に書いている。アカデミーがアインシュタインを非難するのを止めることもできなかった。それでも1935年、亡命先で死んだハーバーの追悼式を、当局の圧力をはねのけて協会の主催で開いた。ナチスを支持する物理学者たちは、相対性理論や量子論を「ユダヤ的物理学」として攻撃し、プランクやハイゼンベルクを「白いユダヤ人」とののしった。彼は国を離れず、組織と若い研究者を守るためにできることをする、という道を選んだ。その妥協を、後の人々は評価と批判の両方で振り返っている。

最大の打撃は戦争の終わりに来た。外交官だった次男エルヴィンが、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件に関わったとして逮捕され、死刑を言い渡された。80代の父は助命を嘆願したが聞き入れられず、エルヴィンは1945年1月に処刑された。その前年には、ベルリンの自宅が空襲で焼け、蔵書も手紙も日記もすべて失われていた。戦争の最後の日々、プランク夫妻は戦場となった田舎を逃げ惑い、アメリカ軍に保護されてゲッティンゲンへ運ばれた。
戦後、彼は崩れたドイツの科学の再建の象徴となり、カイザー・ヴィルヘルム協会は彼の名を冠したマックス・プランク協会として生まれ変わることになった。正式な発足は彼の死の翌年である。1947年10月4日、ゲッティンゲンで89歳で亡くなった。晩年の『科学的自伝』に、新しい科学の真理は、反対する者を説得して光を見せることで勝つのではない、反対者がやがて死に絶え、それに慣れ親しんだ新しい世代が育つことで勝つのだ、と書き残した。自分自身が量子という新しい考えを受け入れるのにためらい続けた人の、苦い実感がこもっている。