ウルグ・ベク
概要
ティムールの孫。15歳でサマルカンドの統治者。政治より天文と数学を好んだ。マドラサ(1420年)と天文台(1424年)を建て、自分で観測に加わった。『スルタンの星表』。ジャムシード・カーシーとカーディーザーデを集めた。1447年、父の死で君主になったが、2年で息子アブドゥッラティーフに背かれ、メッカ巡礼の名目で送り出された途中、刺客に首を斬られた。息子は6か月後に殺された。
所属
ティムール朝関わったできごと(1)
ウルグ・ベクの星表AD1437年 · 測った本文
ウルグ・ベクは、1394年3月22日、イランの北西部の町スルターニーヤで生まれた。祖父ティムールが大軍を率いて西アジアを転戦していた、その陣営の中での誕生だった(ティムール帝国の拡大)。本当の名はムハンマド・タラガイといい、ウルグ・ベクは「大いなる君主」を意味する呼び名である。父のシャー・ルフはティムールの四男で、母のガウハルシャードは、のちにヘラートに壮麗なモスクと学院を建てた、教養の深い女性だった。
幼いウルグ・ベクは、祖父のそばで育った。ティムールの遠征の陣営に連れられて、征服された町々や、祖父の宮廷に集められた学者や職人たちを見た。1402年、ティムールはアナトリアのアンカラでオスマン帝国のバヤズィト1世(雷帝)を破り、捕虜にした(アンカラの戦い)。8歳のウルグ・ベクも、このころ祖父の陣営に従っていたとされる。1405年、ティムールは明を攻める遠征の途中で亡くなり、一族は後継ぎをめぐって争った。最後に勝ったのは、穏やかで信仰の厚いシャー・ルフだった。

シャー・ルフはヘラートを都とし、1409年、15歳の息子ウルグ・ベクに、祖父の都サマルカンドと、アム川とシル川にはさまれた豊かな土地の統治を任せた。はじめは後見の重臣が実務を執ったが、やがてウルグ・ベクは自ら治めるようになり、40年にわたってサマルカンドの主であり続けた。
ウルグ・ベクは、祖父と違って、征服にほとんど心を動かされなかった。北や東の遊牧の勢力と戦ったこともあったが、1420年代の後半、大きな敗北を喫して軍の信頼を失い、父の助けを借りる羽目になった。それからは、自ら軍を率いて遠くへ出ることはほとんど無かった。彼の心を占めていたのは、星と数だった。

1417年から1420年にかけて、ウルグ・ベクはサマルカンドの中心のレギスタン広場に、大きな学院、マドラサを建てた。イスラムの学院では、神学と法学が学問の中心だったが、ここでは天文学と数学が、それと並ぶ大切な科目として教えられた。入口には、知を求めることはすべての信徒の務めである、という預言者の言葉が掲げられていたと伝えられる。ウルグ・ベク自身も講義に立ったという。
彼のもとには、イスラム世界の各地から優れた学者が集まった。中でも名高いのが、イラン出身の数学者ジャムシード・カーシーである。カーシーは十進法の小数を体系的に使って計算の方法をまとめ、円周率を小数点以下16桁まで正しく求めた。この記録は、それから150年以上破られなかった。カーシーが故郷の父に宛てた手紙が残っていて、そこには、王が学者たちの議論に加わり、自ら難しい計算をこなし、誤りを指摘することもあると、驚きをこめて書かれている。アナトリア出身の数学者カーディーザーデ、のちに弟子として名を上げるアリー・クシュチーも、この輪の中にいた。

1420年代の半ばから、ウルグ・ベクはサマルカンドの郊外の丘に、天文台を築き始めた。13世紀にイランで開かれたマラーガ天文台にならいながら、その規模をはるかに超えるものだった。中心には、子午線に沿って、地面を深く掘り下げ、半径40メートルほどの巨大な弧を石と煉瓦で築いた観測の装置があった。弧が大きいほど、目盛りは細かく刻める。太陽や星が子午線を通る瞬間の高さを、当時としては驚くほどの正確さで測ることができた。
天文台での長年の観測をもとに、1437年ごろ、『スルタンの天文表』と呼ばれる書物がまとめられた(ウルグ・ベクの星表)。そこには、暦の計算の方法、細かく刻んだ三角関数の表、惑星の動き、そして1018の恒星の位置が収められていた。星の位置の多くは、古代のプトレマイオスの星表を写すのではなく、自分たちの観測で測り直したものだった。一年の長さは365日6時間10分8秒と求められ、いまの値との違いは1分に満たない。望遠鏡が生まれる前の観測としては、ティコ・ブラーエが現れるまで、これに並ぶ精度はほとんど無かった。

1447年、父シャー・ルフが亡くなり、ウルグ・ベクは一族の長として、帝国の君主の座に就いた。だが、彼にはそれを保つ力が無かった。軍を率いる者としての信望は薄く、世俗の学問を重んじる彼の姿勢は、宗教の学者や神秘主義の教団の指導者たちの一部から快く思われていなかった。甥たちとの争いが続き、ヘラートを任されていた長男アブドゥッラティーフは、父が自分より弟をかわいがると恨みを募らせた。1449年、アブドゥッラティーフは兵を挙げて父に背き、サマルカンドの近くで父の軍を破った。
降伏したウルグ・ベクに、息子はメッカへの巡礼に出ることを許した。だが、それは表向きのことだった。1449年10月27日、巡礼に向かう途中、サマルカンドの近くの村で休んでいたウルグ・ベクのもとに刺客が現れ、首をはねた。手を下したのは、かつてウルグ・ベクに処刑された者の息子だったと伝えられる。55歳だった。父を殺したアブドゥッラティーフも、わずか半年後、自分の兵たちに殺された。

ウルグ・ベクの死後、天文台は顧みられなくなり、やがて壊され、石は持ち去られた。丘の名に、観測の丘という名残だけがとどまった。アリー・クシュチーは天文表を携えてサマルカンドを去り、のちにオスマン帝国のメフメト2世に仕えて、イスタンブルに天文学と数学を伝えた。天文表はイスラム世界で長く使われ、17世紀にはオックスフォードの学者たちによってラテン語に訳され、ヨーロッパの天文学者たちもその正確さを知った。
1908年、ロシアの考古学者ヴャトキンは、古い文書の記述を手がかりに丘を掘り、地下に残っていた巨大な弧の一部を掘り当てた。1941年には、ティムールの廟に葬られていたウルグ・ベクの墓が開かれ、首の骨に鋭い刃で断ち切られた跡が確かめられた。伝えられてきた最期は事実だった。王としては失敗に終わった人生だったが、サマルカンドの空を測り続けた君主の名は、いまも月のクレーターの一つに残っている。