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Person / 人

ウルグ・ベク

Ulugh Beg
AD1394年3月22日 – AD1449年10月27日(享年55)
ティムール朝重要度 5

概要

ティムールの孫。16歳でサマルカンドの統治者。政治より天文と数学を好んだ。マドラサ(1420年)と天文台(1424年)を建て、自分で観測に加わった。『スルタンの星表』。ジャムシード・カーシーとカーディーザーデを集めた。1447年、父の死で君主になったが、2年で息子アブドゥッラティーフに背かれ、メッカ巡礼の名目で送り出された途中、刺客に首を斬られた。息子は6か月後に殺された。

所属

ティムール朝

関わったできごと(1)

ウルグ・ベクの星表AD1437年 · 測った

本文

1394年3月22日、スルターニーヤ(イラン北西部)。ティムールの遠征の陣中で生まれた。父シャー・ルフはティムールの四男。母ガウハルシャード(後にヘラートに大モスクとマドラサを建てた)。

祖父ティムールの遠征に、幼くして同行した(1399〜1404年のインドと小アジアの遠征。10歳で、アンカラの戦いの後のバヤズィトの捕囚を見た)。1405年、ティムールが中国遠征の途上で死んだ。

1409年、15歳でサマルカンドとマー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)の統治者。実際の政務は初め後見人が執った。父の帝国の東半分。

彼は、征服にほとんど関心を示さなかった。1425年、モグーリスタンへの遠征で一度だけ勝ち、1427年、ウズベクとの戦いで負けて、軍の信頼を失った。父が助けに来た。以後、彼は軍を率いなかった。

学問。1417年、レギスタン広場にマドラサ。天文学と数学を、神学と並ぶ主要な科目にした(当時としては異例)。入口のアラビア語の銘。「知識の探求は、すべてのムスリムの男女の義務である」。

教師。ジャムシード・アル・カーシー。カーシャーン出身。『算術の鍵』で10進小数を体系的に扱い、πを16桁まで正確に計算した(3.14159265358979325。前の記録はほぼ10桁。この記録は150年破られなかった)。sin 1°を、方程式の反復解法で18桁まで求めた。ウルグ・ベクは彼を「学問の海」と呼び、彼が死んだとき(1429年)、深く悼んだ。カーシーが父に宛てた手紙が残っていて、サマルカンドの学問の様子と、ウルグ・ベク自身が計算に加わり、議論で誤りを指摘したことが書かれている。「王は、天文学の全ての分野を、自分で計算できる」。

カーディーザーデ・ルーミー(アナトリア出身。数学)。アリー・クシュチー(ウルグ・ベクの弟子。後にオスマン帝国へ)。

1424〜28年、天文台。半径40.4メートルの子午線に沿った六分儀。地下11メートル、地上30メートル。

1437年、『ズィージ・イ・スルターニー』。1018星の位置を、自分たちの観測で。恒星年と回帰年、黄道傾斜、歳差、惑星の運動。三角関数表(1分きざみ、小数8桁)。

1447年、父シャー・ルフが死んだ。ウルグ・ベクは帝国の君主になった。しかし、彼には軍の支持も、宗教勢力の支持もなかった(マドラサでの世俗の学問への傾斜が、ウラマーの一部に嫌われていた)。甥たちと争い、1449年、息子アブドゥッラティーフが軍を率いて父に反乱した。

ウルグ・ベクは降伏した。息子はメッカ巡礼を許した。1449年10月27日、サマルカンドの郊外の村で、休息のために止まったところへ、アッバース(ウルグ・ベクが以前に処刑した男の息子、と伝える)が来て、首を斬った。55歳。

アブドゥッラティーフは、その6か月後、自分の兵に殺された。首はマドラサの門に晒された。

天文台は破壊された。石が持ち去られ、丘の名前だけが残った(「クーヒ・ラサド=観測の丘」)。アリー・クシュチーが星表を持って逃げ、タブリーズを経てイスタンブールへ行き、オスマンの学問に伝えた。

1665年、オックスフォードのジョン・グリーヴズが星表をラテン語に訳した。ヨーロッパが、この数値の正確さを知った。

1908年、ロシアの考古学者ヴャトキンが、17世紀のワクフ文書の記述をたよりに丘を掘って、六分儀の地下部分を掘り当てた。1941年、彼の墓(グリ・アミール廟のティムールの隣)が開かれた。骨の頸椎に、鋭い刃で切られた跡があった。