平賀源内
概要
讃岐の足軽の子。長崎で本草学とオランダ語。江戸で物産会、『物類品隲』。火浣布、寒暖計、エレキテル。秩父で鉱山。油絵。戯作『風流志道軒伝』『根南志具佐』、浄瑠璃『神霊矢口渡』、『放屁論』。土用の丑の日の鰻の宣伝、は伝説。人を斬って獄死。玄白が葬った。「非常の人」。
関わったできごと(1)
平賀源内のエレキテルAD1776年(安永5年) · 修理した本文
1728年、讃岐国の志度浦(いまの香川県さぬき市)に生まれた。父の白石茂左衛門は高松藩の米蔵の番をする身分の低い藩士で、のちに源内は先祖の姓という平賀を名乗る。子どもの頃、掛け軸に描いた天神の顔に細工をして、お神酒を供えると顔が赤くなるように見せかける仕掛けを作った、という話が伝わっている。真偽はともかく、からくりと見世物が好きな、いかにも源内らしい逸話である。

若い頃、高松藩の薬草園で本草学を学んだ。本草学は、薬になる植物や動物、鉱物を調べる学問で、明の時代にまとめられた薬物の書(本草綱目)を土台にしていた。1752年頃、藩の命で長崎に1年ほど遊学し、オランダの文物や知識に触れた。帰国してまもなく、藩の役目を退き、家督を妹の夫に譲った。武士の身分にとらわれず、学問で身を立てたかったのである。
1756年、江戸に出て、本草学者の田村藍水に入門した。翌1757年、源内の発案で、全国の薬草や鉱物、珍しい産物を持ち寄って展示する薬品会(物産会)が湯島で開かれた。日本で最初の博覧会のようなものである。1762年、源内が自ら主催した5回目の会には、各地の協力者から1300種もの品が集まった。翌年、その成果を『物類品隲』という本にまとめた。輸入に頼っている薬の多くは、日本の中でも探せば見つかる、というのが源内の主張だった。商業を盛んにして国を富ませようとする老中田沼意次の時代(田沼時代)の空気に、源内の関心はぴったり合っていた。

源内の名が知られるようになると、高松藩は再び彼を召し抱えたが、源内はほどなく辞めてしまった。藩は、ほかの家に仕えることを許さないという処分を下した。源内は生涯、どこの家にも仕えない浪人として生きることになった。自由ではあったが、暮らしは常に不安定だった。
源内の関心は、驚くほど多方面に広がった。秩父の山で見つけた石綿から、火に入れても燃えない布、火浣布を作って見せた。オランダの寒暖計をまねて作った。鉱山の開発にも乗り出し、秩父で金や鉄を掘ろうとしたが、多くは失敗に終わった。1773年には秋田藩に招かれ、銅山の技術指導に出かけた。その旅で、秋田藩士の小田野直武に西洋画の陰影や遠近の描き方を教えたと伝えられる。直武はまもなく江戸に出て、杉田玄白らが訳した『解体新書』の解剖図を描いた。秋田で生まれた洋風の絵は、のちに秋田蘭画と呼ばれる。源内自身も、西洋の女性を描いた油絵を残している。

源内は文筆の人でもあった。風来山人の筆名で、1763年に戯作『根南志具佐』と『風流志道軒伝』を出し、どちらも評判になった。前者は地獄の閻魔大王が人気役者に恋をする話、後者は巨人の国や小人の国を旅する男の話で、世の中の権威を笑いのめした。福内鬼外の名で浄瑠璃も書き、1770年初演の『神霊矢口渡』は、のちのちまで繰り返し上演された。屁をひる芸人を題材にした『放屁論』では、屁の芸を見下す学者たちを逆に笑い飛ばした。
1770年、源内は再び長崎へ行き、壊れたエレキテルを手に入れた。摩擦で静電気を起こし、火花を散らす西洋の医療器具である。源内は構造を調べ、7年ほどかけて動くように直した(平賀源内のエレキテル)。1776年に完成したエレキテルは評判を呼び、大名や裕福な町人の屋敷で披露された。だが源内はその原理を理解していたわけではなく、見世物以上のものにはならなかった。弟子たちがまねて作り、勝手に見世物に使うと、源内は腹を立てた。

晩年の源内は、仕事がうまくいかず、苛立っていたと伝えられる。1779年11月、源内は自宅で人を斬った。ある大名屋敷の修理の計画をめぐって、酒の席のあと、同席していた者が大事な書類を盗んだと思い込み、刀を抜いたとされる。相手の一人は死んだ。書類は自分の手元から見つかったという話もあるが、事件のいきさつには諸説ある。源内は捕らえられて江戸の伝馬町の牢に入れられ、12月、牢の中で亡くなった。破傷風だったとも、自ら食を断ったとも言われる。満51歳だった。
友人の杉田玄白は、罪人として死んだ源内のために墓碑を建て、ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、なんぞ非常に死するや、という言葉を刻んだ。並はずれた人が、並はずれたことを好み、並はずれたことをして、なぜ並はずれた死に方をするのか、という意味である。墓は浅草の総泉寺に建てられ、寺が移ったあとも、もとの場所に残っている。源内は死なずに田沼意次にかくまわれて生き延びた、という噂も流れた。

夏の土用の丑の日に鰻を食べる習慣は、売れずに困った鰻屋に頼まれた源内が「本日土用丑の日」と張り紙をさせたのが始まりだ、とよく言われる。だが、この話が書物に現れるのは源内の死から長くたってからで、根拠は確かめられていない。発明家、本草学者、作家、画家、鉱山師。どれか一つを極めたというより、新しいものに次々と手を出し続けた人だった。蘭学が江戸の町で広がっていく時代の、最も目立つ顔の一人である。