できごと

人痘接種

Variolation
AD1721年8月9日
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国ポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国エジプトオーストリア帝国フランス王国スペインモロッコAlgiersイギリスアイルランド王国TunisBrandenburgヴェネツィア共和国NaplesTripolitaniaCyrenaicaプロイセンAD1721年8月9日ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1721年8月9日の版図を描いています(26勢力)。

概要

天然痘の膿を、健康な人の皮膚に入れる。軽く済ませて、以後かからなくする。中国では鼻から粉を吸わせる方法が明代から行われ、オスマン帝国では腕を切って入れた。イスタンブール駐在の英国大使夫人メアリー・ウォートリー・モンタギューがそれを見て、自分の息子に施し、帰国後に広めた。1721年、ニューゲート監獄の死刑囚六人で公開の試験が行われ、全員が生き延びた。危険は残る。接種された者の約2%が死に、その間は人に感染させた。それでも、かかったときの死亡率は三割だった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

メアリー・ウォートリー・モンタギューAD1689年5月15日–AD1762年8月21日 · 持ち込んだ

本文

天然痘は、かかった人のおよそ2割から3割を死なせる病だった。生き延びても、顔にあばたが残り、目が見えなくなる人もいた。18世紀のヨーロッパでは、毎年40万人ほどがこの病で死んだと推定されている。王侯貴族も逃れられず、王位継承の行方を左右したことも一度や二度ではない。アメリカ大陸では、ヨーロッパ人が持ち込んだこの病が先住民の社会を壊滅させた(天然痘のアメリカ大陸上陸)。

一方で、一度かかって治った者は二度とかからないことも、古くから誰もが知っていた。10世紀のペルシアの医師ラーズィーも、この病を麻疹と区別して詳しく書いている(ラーズィー『天然痘と麻疹について』)。問題は、最初にかかったときに多くの人が死ぬことだった。それなら、わざと軽くかからせればよいのではないか。この発想から生まれたのが、人痘接種である。天然痘の患者のうみやかさぶたを健康な人の体に入れて、軽い天然痘にかからせ、以後の免疫をつける。

トマス・ヒッキー画『マイソールの王妃たち』、1805年。左の王妃には人痘接種の跡とされる口周りの変色が見える
トマス・ヒッキー画『マイソールの王妃たち』、1805年。左の王妃には人痘接種の跡とされる口周りの変色が見えるWikimedia Commons Thomas Hickey, 1805 · Public domain

中国では、明の時代にこの方法が行われていた記録がある。確実なのは16世紀の記録で、11世紀にさかのぼるという言い伝えもあるが、確かめられてはいない。中国のやり方は鼻から吸わせるものだった。患者のかさぶたを乾かして粉にし、綿にくるんで鼻の穴に入れる。

男の子は左の鼻、女の子は右の鼻という決まりがあった。そして、新しいかさぶたより、しばらく置いた古いかさぶたのほうが安全だと経験から知られていた。理屈は分かっていなかったが、時間がたつうちに病原体が弱まるので、これは理にかなっていた。

メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人の肖像版画(サミュエル・フリーマン作、ゴドフリー・ネラーの肖像による)
メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人の肖像版画(サミュエル・フリーマン作、ゴドフリー・ネラーの肖像による)Wikimedia Commons Samuel Freeman / After Godfrey Kneller · Public domain

オスマン帝国や中東では、腕の皮膚を針や刃で浅く傷つけ、そこにうみを入れた。インドやアフリカにも、それぞれ独自の方法が伝わっていたことが記録に残っている。

この方法をイギリスに持ち込んだのは、医師ではなく、一人の貴族の女性だった。メアリー・ウォートリー・モンタギューは、1715年、自分自身が天然痘にかかった。命は取りとめたが、顔に跡が残り、まつ毛が抜けて二度と生えなかった。その2年前には、弟を同じ病で失っていた。1716年、夫がオスマン帝国駐在の大使に任じられ、彼女は夫に従ってイスタンブールに移った。

メアリー・ウォートリー・モンタギュー(画)チャールズ・ジャーヴァス
メアリー・ウォートリー・モンタギューWikimedia Commons Charles Jervas · Public domain

1717年4月1日、彼女はイギリスの友人に長い手紙を書いた。この国では天然痘は私たちの国ほど恐ろしい病ではない、と彼女は伝えた。秋に暑さがやわらぐと、老婆たちがクルミの殻にうみを入れて家々を回り、集まった人々に、どの血管に入れてほしいかと尋ねて接種していく。私はこの方法の安全に満足しているので、かわいい息子に試すつもりだ、という手紙である。彼女は言葉どおりにした。1718年3月、大使館付きの医師チャールズ・メイトランドの立ち会いのもと、幼い息子に接種を受けさせた。

1721年、ロンドンで天然痘が流行すると、帰国していたモンタギュー夫人は、3歳の娘に接種を受けさせた。メイトランドが行い、宮廷の医師たちも立ち会った。イギリスで記録に残る最初の人痘接種である。これに関心を持ったのが、皇太子妃キャロラインだった。自分の子どもに受けさせる前に、安全かどうか確かめたい。そこで、ロンドンのニューゲート監獄にいた死刑囚が使われた。

1721年8月9日、男3人、女3人、計6人の死刑囚に、接種が行われた。生き延びれば恩赦を与えるという条件だった。6人とも助かった。さらにそのうちの19歳の女性は、天然痘の患者の看病に送られたが、病にかからなかった。

続いて孤児院の子どもたちでも試され、翌1722年4月、皇太子妃の二人の娘が接種を受けた。王家がわが子に受けさせたことが、何よりの宣伝になった。いまの基準でいえば、囚人や孤児に本当の同意などあり得ず、明らかに許されない実験である。だが当時は、いきなり自分の子に試すのに比べれば、慎重な手順と受け止められていた。

同じ1721年、大西洋の向こうのボストンでも天然痘が流行していた。牧師のコットン・マザーは接種を強く勧めた。彼がこの方法を知ったのは、自分の所有していたアフリカ出身の奴隷オネシムスからだった。天然痘にかかったことがあるかと尋ねると、オネシムスは、あるとも言えるし、無いとも言える、と答えた。そして、故郷のアフリカで行われていた接種のことを説明し、腕に残った傷跡を見せた。アメリカに人痘接種をもたらしたのは、奴隷とされたアフリカ人の知識だったのである。

医師のザブディエル・ボイルストンが、マザーの勧めに応じて接種を行った。接種を受けた二百数十人のうち、死んだのは6人、2%あまりだった。同じ流行で自然にかかった人々は、およそ14%が死んだ。差は数字ではっきり示された。

それでも反対は激しかった。神の意思に逆らう行いだとする者も、病をわざと広める行いだと非難する医師もいた。マザーの家には火のついた爆弾が投げ込まれ、脅しの言葉を書いた紙が結びつけられていた。爆弾は不発に終わった。

人痘接種には、たしかに危険があった。入れるのは本物の天然痘なので、多くは軽く済むが、1%から3%ほどは死んだ。接種を受けた人は、治るまでの間、周りに天然痘をうつすことがあり、そこから流行が始まることもあった。うみを人から人へ直接移すので、梅毒など別の病気まで移してしまうこともあった。それでも、何もしないで自然にかかるよりは、ずっと死ぬ見込みが小さかった。

この危険を取り除いたのが、1796年のエドワード・ジェンナーである(ジェンナーの種痘)。彼は、牛の病気である牛痘にかかった人が天然痘にかからないことに目をつけ、牛痘のうみを接種する方法を確かめた。牛痘は人には軽くしか出ず、周りにうつることもなく、死ぬこともほとんど無い。人痘接種は次第に牛痘の接種に置き換えられ、イギリスでは1840年、人痘接種そのものが法律で禁じられた。

しかし、人痘接種が無ければ、ジェンナーの発想も生まれなかった。軽い病をわざと起こして重い病を防ぐ、という考え方は、すでにあったのである。ジェンナーがしたのは、その軽い病を、もっと安全なものに取り替えることだった。ジェンナー自身、8歳のときに人痘接種を受けている。当時のイギリスのやり方は荒っぽく、何週間も食事を減らし、血を抜き、下剤をかけて体を清めてから接種した。彼はその苦しい経験を、生涯忘れなかったという。

モンタギュー夫人は医師ではなく、当時、女性が医学について公に語ることは歓迎されなかった。1722年、彼女は名前を伏せて、トルコの商人が書いたという体裁の文章を新聞に寄せ、イギリスの医師たちのやり方を批判した。医師たちが接種に反対するのは、天然痘が彼らにとって実入りのよい病だからだ、という趣旨のことまで書いている。

彼女の死後、イングランド中部のリッチフィールド大聖堂に、記念の碑が建てられた。その碑文は、彼女がこの国に天然痘の接種をもたらしたことで、数えきれない命が救われた、とたたえている。わざと軽くかからせるという、何百年も前からアジアやアフリカの人々が知っていた知恵が、イスタンブールの老婆たちから一人の女性を通じてヨーロッパに入り、やがてジェンナーの種痘を経て、1980年の天然痘の根絶へとつながっていく(天然痘の根絶宣言)。

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