できごと

ペニシリンの発見

Discovery of penicillin
AD1928年9月28日
重要度 5
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概要

休暇から戻ったフレミングが、放置したブドウ球菌のシャーレに青カビが生えて、周りの菌が溶けているのを見た。「面白い」。カビの汁を「ペニシリン」と名づけて、論文を書いて、精製できず、忘れられた。1940年、オックスフォードのフローリーとチェインが精製して、マウスで試し、1941年、人で。アメリカが大量生産して、1944年、ノルマンディーの負傷兵に。感染症で死ぬのが当たり前だった時代が終わった。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

アレクサンダー・フレミングAD1881年8月6日–AD1955年3月11日 · 見つけた

本文

20世紀の初めまで、細菌の感染は手の施しようのない死因だった。小さな傷が化膿して命を落とすこともあり、肺炎や産褥熱、梅毒で多くの人が死んだ。第一次世界大戦の野戦病院では、銃弾そのものより、傷の感染で死ぬ兵士が多かった。19世紀の後半、ルイ・パスツールやロベルト・コッホが病気の原因となる細菌を突き止めたが、体の中の細菌を殺す薬は、梅毒に効くヒ素の化合物サルバルサンなど、ごくわずかしか無かった。アレクサンダー・フレミングは軍医としてフランスでその現場を見て、消毒薬は細菌より先に体の細胞を傷めると論文に書いている。

ロンドンのパディントンにあるセント・メアリー病院の予防接種部で、フレミングはワクチン療法の大家アルムロス・ライトの下で働いていた。1921年には涙や鼻汁に含まれる殺菌の成分リゾチームを見つけている。部屋は散らかっていて、培養を終えたシャーレをすぐには片づけない癖があった。

1943年、ロンドンのセント・メアリー病院の研究室のアレクサンダー・フレミング
1943年、ロンドンのセント・メアリー病院の研究室のアレクサンダー・フレミングWikimedia Commons Official photographer · Public domain

1928年8月、フレミングはブドウ球菌を培養したシャーレを実験台に残したまま、サフォークへ休暇に出かけた。9月3日に戻り、積んであったシャーレを片づけていて、そのうちの一枚に目を留めた。青緑のカビが生え、その周りだけ菌のかたまりが溶けて透明になっていた。訪ねてきた元の助手マーリン・プライスに見せると、「これは面白い」と言ったと伝えられる。後年フレミング自身は、1928年9月28日の朝に医学を変えるつもりは無かった、と語っている。

カビの胞子は、階下の研究室から舞い込んだと考えられている。そこではラ・トゥーシュという研究者がアレルギーの研究のために様々なカビを育てていた。カビはペニシリウム属の一種で、のちにペニシリウム・ノタトゥムと同定された。後の研究者の再現実験では、休暇の前半が涼しくてカビが先に育ち、後半に暑くなって菌が育った、という天候の巡り合わせが必要だったとされる。

セント・メアリー病院のフレミングの研究室とプレド街
セント・メアリー病院のフレミングの研究室とプレド街Wikimedia Commons Vera de Kok · CC BY 4.0

フレミングはカビを液体の培地で育て、その濾液がブドウ球菌や連鎖球菌、肺炎球菌、ジフテリア菌の増殖を止め、白血球をほとんど傷めないことを確かめた。1929年、この物質を「ペニシリン」と名づけ、英国実験病理学雑誌に報告した。しかし反響は乏しかった。ペニシリンは不安定ですぐ効き目を失い、化学者でないフレミングの研究室では純粋な形で取り出せなかった。傷に塗る試みをいくつかしただけで、ペニシリンは研究室で雑菌を除いて特定の菌を育てるための便利な道具として使われ続けた。

10年後、オックスフォード大学の病理学教授ハワード・フローリー(オーストラリア出身)と、ナチス政権を逃れてきたユダヤ系の化学者エルンスト・チェインが、細菌を殺す天然の物質を体系的に調べる計画を始めた。チェインは古い文献の中からフレミングの論文を見つけた。第二次世界大戦が始まったばかりで、資金も設備も足りなかった。生化学者ノーマン・ヒートリーが、浴槽や便器、牛乳缶まで使ってカビを育てる装置を工夫し、少しずつ薬を取り出した。

第二次世界大戦中、セント・メアリー病院の研究室で働くフレミング
第二次世界大戦中、セント・メアリー病院の研究室で働くフレミングWikimedia Commons Ministry of Information Photo Division Photographer · Public domain

1940年5月25日、8匹のマウスに致死量の連鎖球菌を注射し、そのうち4匹にペニシリンを与えた。翌朝、与えなかった4匹は死に、与えた4匹は生きていた。1941年2月、最初の患者として、顔の傷から敗血症になった警官アルバート・アレクサンダーに注射した。熱は下がり、数日で劇的に回復したが、薬が足りなくなった。患者の尿から薬を回収して使い回しても追いつかず、彼は3月に亡くなった。ドイツ軍の上陸に備えて、研究者たちはカビの胞子を上着の裏に染み込ませ、どこへ逃げても研究を続けられるようにしたという。

空襲下のイギリスでは大量に作れなかった。1941年7月、フローリーとヒートリーはアメリカへ渡った。イリノイ州ピオリアの農務省の研究所で、トウモロコシの浸漬液を培地に加えると収量が大きく増えることが分かり、市場で拾われたカンタロープ(メロン)に生えていた、よく増える株も見つかった。ファイザーやメルクなどの製薬会社が大きなタンクで深く培養する方法を確立し、1944年6月のノルマンディー上陸作戦に向けて、大量のペニシリンが用意された。最初の患者一人を救えなかった薬が、3年余りで戦場の負傷兵に行き渡るようになったのである。

1945年、フレミング、フローリー、チェインの3人がノーベル生理学・医学賞を受けた。ヒートリーは受賞者に入らなかった。新聞は、偶然から奇跡の薬を見つけた孤独な天才としてフレミングを讃え、精製と臨床試験を成し遂げたフローリーの名はあまり知られなかった。フレミング自身は講演で、ペニシリンを薬にしたのはオックスフォードの研究者たちだと繰り返し述べている。

ノーベル賞の受賞講演で、フレミングは警告もしている。量の足りないペニシリンを自分で使えば、菌は薬に慣れて耐性を持つようになる、という警告である。その後、ストレプトマイシンなど多くの抗生物質が見つかり、結核や肺炎、梅毒は治せる病気になった。同時に、フレミングが恐れたとおり、薬の効かない耐性菌が広がり、いまでは世界の医療の大きな課題になっている。

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