ガリレオ・ガリレイ
概要
望遠鏡を空へ向け、観測で世界を確かめる方法を示した。異端審問で説の撤回を強いられる。
関わったできごと(2)
『星界の報告』AD1610年3月13日 · 見たガリレオの異端審問AD1633年 · 被告本文
1564年2月15日、イタリアのピサに生まれた。父ヴィンチェンツォは音楽家で、弦の長さと張りの強さを変えて音の高さを確かめる実験をしていた。昔の権威より、実際に試した結果を重んじる父の姿勢は、息子に受け継がれたと言われる。

父の望みでピサ大学に入って医学を学んだが、数学に惹かれて転じ、学位を取らずに大学を去った。ピサの大聖堂で揺れるランプを見て、揺れ幅が小さくなっても往復にかかる時間は変わらないと気づいた、という話が弟子の書いた伝記にある。斜塔から重さの違う球を落として同時に地面に着くことを示したという有名な話も同じ伝記にあるが、実際に行ったかどうかは疑問視されている。
25歳でピサ大学の数学講師になり、1592年からはヴェネツィア共和国のパドヴァ大学で18年教えた。生涯で最も幸せな時期だったと、のちに本人が振り返っている。結婚はしなかったが、ヴェネツィアの女性マリナ・ガンバとの間に3人の子をもうけた。

商売もうまかった。砲術や測量に使う計算用の器具を考案し、職人を雇って作らせて販売し、使い方の講習も開いた。学生を自宅に下宿させて収入を補っている。
望遠鏡を発明したのではない。1609年、オランダで遠くのものが近くに見える筒が作られたという噂を聞き、自分でレンズを磨いて改良し、倍率を上げた。ヴェネツィアの元老院に、敵の船を早く見つけられる道具として献上し、大学の終身の地位と大幅な昇給を得ている。そして、その筒を空へ向けた。

1610年、見えたものを『星界の報告』として2か月ほどで出版した。月の表面には山と谷があり、木星のまわりを4つの小さな星が回り、天の川は無数の星の集まりだった。天体は完全な球でなければならない、すべては地球を回っていなければならない、という前提が、覗けば崩れる。とくに木星の衛星は、地球以外のものを中心に回る天体があることを、目に見える形で示していた。
彼はこの4つの衛星を「メディチ家の星」と名付け、故郷トスカーナの大公コジモ2世に献じた。見返りに、大公付きの首席数学者兼哲学者の地位を得て、フィレンツェへ移った。講義の義務の無い、研究に専念できる職だった。その後も、金星が月のように満ち欠けすること、太陽の表面に黒点があることを観察し、コペルニクスの太陽中心説が正しいと確信を深めていく。

一方で、反発も強まった。大学の哲学者たちは、アリストテレスの自然観を揺るがす主張を嫌い、聖職者の一部は、聖書の記述に反すると非難した。彼は手紙で、聖書は天がどう動くかではなく、天国へどう行くかを教えるものだと反論している。1616年、教会はコペルニクスの説を聖書に反するものとして禁じ、彼は枢機卿ベラルミーノから、その説を真実として抱いたり擁護したりしないよう告げられた。
1623年、彼の友人で学問に理解のあったバルベリーニ枢機卿が教皇ウルバヌス8世になった。彼は仮説として扱う限り許されると考え、1632年、天動説と地動説の論者が議論する形の『天文対話』を出版した。ところが、天動説の側の登場人物は議論でことごとく言い負かされ、名前も「単純な人」を連想させるものだった。しかも作中で教皇自身の持論がその人物に語らされていた。教皇は激怒したと伝えられる。
翌1633年、69歳の彼はローマの異端審問所に呼び出された(ガリレオの異端審問)。1616年の命令に背いたとされ、拷問の脅しのもとで、ひざまずいて自説を撤回し、呪うと誓わされた。判決は終身の禁錮で、のちにフィレンツェ郊外アルチェトリの別荘での軟禁に改められた。撤回の後に「それでも地球は動く」とつぶやいたという話は、100年以上たってから書かれたもので、後世の創作とされる。

軟禁の翌年、修道女になっていた長女マリア・チェレステが亡くなった。父を気遣う彼女の手紙は100通以上残っていて、その心の通い合いを伝えている。
裁判で撤回を強いられた後も、軟禁のまま『新科学対話』を書いた。教会の検閲の及ぶイタリアでは出版できず、原稿はオランダへ持ち出されて1638年にライデンで出版された。物体が落ちるときは、重さに関係なく時間の二乗に比例する距離を進むこと、投げたものは放物線を描くことを、実験と数学で示している。落体と運動についてのその本のほうが、物理学への貢献としては大きいとされる。この頃には両目の視力を失っていた。

1642年1月8日、アルチェトリで死んだ。77歳だった。教会は、大きな墓を建てることを許さなかった。同じ年の暮れ、イギリスでアイザック・ニュートンが生まれている。ニュートンは、ガリレオの運動の研究とヨハネス・ケプラーの惑星の法則を結びつけて、万有引力の理論を作ることになる。
1992年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオへの有罪判決が誤りだったことを公に認めた。裁判から359年後だった。観測と実験で自然を確かめ、それを数学で表すという方法を示したことで、彼は近代科学の父と呼ばれている。