できごと

包囲下の種子

The seeds under siege
AD1942年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1942年の版図を描いています(33勢力)。

概要

1941年から900日近く、レニングラードは包囲された。市民100万人以上が死んだ。多くが餓死である。市の中心に、ヴァヴィロフが集めた種子の研究所があった。食べられる米、麦、豆、じゃがいもが、数十トン。職員は、それを守った。交代で不寝番に立ち、鼠を追い、そして手をつけなかった。米の担当者ドミトリー・イワノフは、米の袋に囲まれた机で死んだ。落花生の担当者も、じゃがいもの担当者も。記録に残るだけで、9人が餓死した。標本は、戦後、各地に配られた。

場所

サンクトペテルブルク
59.93°N 30.36°E · ロシア

本文

1941年6月、ドイツはソ連に攻め込んだ(独ソ戦の始まり)。北へ向かった軍は、9月8日、ラドガ湖の南岸の町を落として、レニングラードと国内を結ぶ陸の道を断った。包囲が完全に解けるのは1944年1月27日、872日後のことである(レニングラード包囲)。その間に死んだ市民の数は、63万人から150万人まで推計に幅があるが、百万人前後とする見方が多い。その大半が飢えによる死だった。

最も苦しかったのは1941年の冬である。11月の配給は、工場で働く者でパン一日250グラム、それ以外の大人と子どもは125グラムにまで減った。そのパンも、小麦粉は半分ほどで、残りは木のパルプから作ったセルロースや綿の実の油かす、糠などで嵩を増したものだった。暖房も電気も水道も止まり、零下三十度の寒さが続いた。人々は馬や犬や猫を食べ、革のベルトを煮て、壁紙の糊を舐めた。人の肉を食べたかどで捕まった者の記録も残っている。

人工衛星写真サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達した
人工衛星写真サンクトペテルブルクの街はネヴァ川河口の三角州を中心に発達したWikimedia Commons NASA · Public domain

市の中心、聖イサアク広場に面した建物に、全ソ連邦植物栽培研究所があった。所長のニコライ・ヴァヴィロフが二十年かけて世界じゅうを歩き、栽培植物の生まれた土地を探して集めた種子や根や芋が、そこに保管されていた(ヴァヴィロフと起源の中心)。小麦、大麦、米、とうもろこし、豆、落花生、そして地下の貯蔵庫には何千もの品種のじゃがいも。点数は二十五万に及んだとされる。その多くは、そのまま食べられるものだった。

ヴァヴィロフ自身は、そこにいなかった。農学者ルイセンコを後押しするスターリン政権のもとで、遺伝学を重んじるヴァヴィロフは敵視され、1940年8月に調査旅行の途中で逮捕されていた。死刑の判決はのちに禁錮に減らされたが、彼は1943年1月、ヴォルガ河畔のサラトフの監獄で、飢えのために死んだ。世界の飢えをなくすために種子を集めた人が、飢えで死んだのである。

1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図
1910年時点におけるサンクトペテルブルクの地図Wikimedia Commons Сonsociation "Prosveschenie", Saint Petersburg · Public domain

包囲が始まると、収集の一部は列車でウラル地方へ疎開させたが、大半は市内に残された。研究所の職員たちは、それを守ることを選んだ。誰がどう決めたのかを示す詳しい記録は残っておらず、上からの命令というより、その場にいた人々が一人ひとりそうした、と理解されている。彼らは保管室に鍵をかけて封をし、交代で寝ずの番に立った。盗まれるのを防ぐためであり、飢えた鼠を追うためでもあった。鼠は棚に並んだ袋をかじる。職員は棚を金属の板で囲い、箱を床から離して吊るした。暖房のない建物で、種子が凍って死なないように気を配り、爆撃で窓が割れると板で塞いだ。

種子は、ただしまっておけば済むものではない。何年もたつと芽を出す力を失うので、ときどき蒔いて育て、新しい種を取り直さなければならない。1942年の春、職員たちは市の郊外の畑にじゃがいもを植えた。前線に近く、砲弾が落ちてくる畑だった。秋に掘り出した芋のうち、次の年の種芋にする分は研究所に戻され、品種は生き延びた。

その間に、職員が次々に倒れていった。米を受け持っていたドミトリー・イワノフは、何千もの米の袋に囲まれた自分の机で死んでいるのが見つかった。袋は開けられていなかった。落花生の担当のアレクサンドル・シュチューキンは、机に向かったまま死に、手には落花生の袋を握っていたと伝えられる。燕麦の担当のリディア・ロディナも飢えで死んだ。包囲のあいだに飢えで死んだ職員は、記録に残るだけで九人とされ、もっと多かったとする説もある。生き延びた職員の一人は、のちに、歩くことも難しくなっていたが、種子に手をつけることは考えなかった、それは世界の未来のためのものだったから、という趣旨のことを語っている。

包囲が解けたとき、収集の大部分は無事だった。爆撃と湿気と鼠で失われたものもあったが、種子は戦後、荒れ果てたソ連の農業を立て直すのに使われた。複製は世界各地の研究機関にも配られ、いまも多くの国の作物の品種改良に、この収集に由来する遺伝子が使われている。ヴァヴィロフの名誉が回復されたのは、彼の死から十年以上たった1955年である。研究所はのちに彼の名を冠し、いまはヴァヴィロフ記念全ロシア植物遺伝資源研究所として、三十万点を超える収集を持つ。世界で最も古く、最も大きい種子の収集の一つである。

研究所は、いまも安泰ではない。資金は乏しく、設備は古びている。種子にできない果樹やいちごは畑で育て続けるしかないが、そうした生きた収集を持つ郊外の試験場を宅地に転用する計画が2010年に持ち上がり、世界の研究者の抗議でひとまず止まった。2022年以降は、ロシアと西側の研究機関の協力も細くなっている。2008年には北極圏のスヴァールバル諸島に、世界の種子の予備を凍土の中に保管する施設が開かれた(スヴァールバル世界種子貯蔵庫)。その考え方の根には、戦争や災害から種子を守るという、レニングラードの職員たちが命をかけて引き受けた仕事がある。

研究所の建物の壁には、包囲のあいだに飢えで死んだ職員の名を刻んだ銘板がある。彼らが守ったものは、その冬、誰の飢えも満たさなかった。役に立ったのは戦争が終わってからであり、いまも役に立ち続けている。

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