人物

ティム・バーナーズ=リー

Tim Berners-Lee
AD1955年6月8日 – ?
イギリス重要度 4

概要

CERNで文書を相互に繋ぐ仕組みを考え、特許を取らずに公開した。誰でも情報を出せる世界がここから始まる。

関わったできごと(1)

World Wide Web の誕生AD1989年 · 提案

本文

ティム・バーナーズ=リーは1955年6月、ロンドンに生まれた。両親はともに数学者で、世界で最も早い時期に売り出された商用の計算機の一つの開発に関わっていた。食卓では、計算機に人間のような連想をさせるにはどうすればよいか、という話が出たと、本人は振り返っている。オックスフォード大学で物理学を学び、学生のころには、古いテレビを画面に使い、はんだごてで自分の計算機を組み立てた。

ティム・バーナーズ=リーの肖像
ティム・バーナーズ=リーの肖像Wikimedia Commons Web Summit · CC BY 2.0

卒業後、彼はいくつかの会社でソフトウェアを作る仕事をした。1980年、スイスのジュネーヴ郊外にあるヨーロッパ原子核研究機構(CERN)に、半年の契約で雇われる。そこで彼は、人と計画と装置の関係を覚えておくために、文書と文書を結びつけて呼び出せる自分用のプログラムを書いた。のちの発明の種である。

1984年、彼は正式な職員としてCERNに戻った。CERNは、何千人もの研究者が世界中から来ては帰る、巨大な共同研究の場だった。それぞれが違う種類の計算機を使い、違う形式で文書を残していく。人が入れ替わるたびに、誰が何を知っていたのか、どこに何があるのかが分からなくなった。1989年3月、彼は上司に一つの提案書を出した。情報の管理についての提案と題されたその文書の表紙に、上司は、あいまいだが面白い、と書き込んで、試してみることを許した。

ティム・バーナーズ=リー(2025年ウェブサミット)
ティム・バーナーズ=リー(2025年ウェブサミット)Wikimedia Commons Summit · CC BY 4.0

1990年、ベルギー出身の同僚ロベール・カイユの協力を得て、計画は具体的になっていく。彼が考えたのは、三つの取り決めだけで足りる仕組みだった。文書の書き方を決めるHTML、文書のありかを一行で指し示すURL、文書をやり取りする手順を決めるHTTPである。すでにあったインターネットの通信網(その始まりはARPANETの最初の通信)の上に、文書を網の目のようにつなぐ層をかぶせる。その年の暮れまでに、彼は最初の閲覧用ソフトと、文書を配る最初のサーバーを、当時最新の計算機の上で動かした。仕組み全体を、ワールド・ワイド・ウェブと名付けた(World Wide Web の誕生)。

文書と文書を結びつける考え自体は、彼の発明ではない。何十年も前から、思いついたことを次々にたどれる情報の仕組みが構想され、ハイパーテキストという名前も付いていた。バーナーズ=リーが新しかったのは、それを世界中の誰もが使える形で、しかも最小限の決まりで作ったことだった。とりわけ大きかったのは、中央の目録を置かなかったことである。誰かが全体の台帳を管理すれば、その誰かが全体を握ることになる。だが、ウェブでは、文書がほかの文書を指すだけで、どこからでも新しい文書を足せる。リンクの先が消えて、行き止まりになることも許した。完全さよりも、誰でも勝手に加われることを選んだのである。

ロンドン内務省でのティム・バーナーズ=リー(2010年3月11日)
ロンドン内務省でのティム・バーナーズ=リー(2010年3月11日)Wikimedia Commons Paul Clarke · CC BY 3.0

1991年の夏、彼はウェブの仕組みをインターネットの掲示板で公開し、誰でも使えるようにした。最初のうち、ウェブを使っていたのは物理学者や計算機の研究者だけだった。1993年4月、CERNはウェブの技術を、使用料を取らずに誰でも使えるものとして公開すると宣言した。同じ年、アメリカの大学で、画像と文字を一緒に表示できる使いやすい閲覧ソフトが作られ、ウェブは一気に広がっていく。同じころ、ほかのいくつかの情報の仕組みは、使用料を取ろうとして利用者を失った。もし特許を取って使用料を求めていたら、ウェブは今の姿にはなっていなかっただろうと、多くの人が考えている。

1994年、バーナーズ=リーはアメリカのマサチューセッツ工科大学に移り、ウェブの技術の標準を決める国際的な団体を作って、その長となった。一つの会社が勝手に仕様を変えて、ウェブが会社ごとにばらばらになるのを防ぐためだった。彼は自分の発明で会社を興して大金を得る道を取らず、標準を守る役に回った。2004年にはイギリスの女王からナイトの爵位を受け、2016年には計算機科学の最高の賞とされるチューリング賞を受けている(アラン・チューリング)。2012年のロンドン・オリンピックの開会式では、競技場の真ん中で自ら計算機に向かい、これはすべての人のために、という言葉を世界に送った。

ワールド・ワイド・ウェブ財団発足時に演説するバーナーズ=リー
ワールド・ワイド・ウェブ財団発足時に演説するバーナーズ=リーWikimedia Commons John S. and James L. Knight Foundation , photo by Scott Henrichsen · CC BY 2.0

ウェブが広がるにつれて、彼の心配も大きくなった。誰のものでもないはずのウェブで、人々の時間と情報が、検索や交流のための少数の巨大な会社に集まっていく(リンクで順位をつける、実名でつながる)。人々のデータは本人の手を離れて広告に使われ、偽の情報が広がり、国によってはウェブそのものが監視や検閲の道具になった。バーナーズ=リーは、こうした現状を最も強く批判する一人になった。2009年にはウェブを誰もが使えるようにするための財団を作り、のちには、個人のデータを本人が持ち、どのサービスに見せるかを本人が決められる仕組みを作る試みを始めている。

ウェブを作った人が、ウェブの今の姿を嘆いている。その姿は、技術の設計がどれほど社会の形を決めるかを示している。誰の許可もいらずに、誰でも文書を出し、誰の文書にもつなげる。その設計があったからこそ、世界中の人が情報を出す側に回れた。その同じ開かれた仕組みの上に、少数の巨大な入口が築かれたのである。

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