獣医学校
概要
十八世紀のヨーロッパで、牛疫が繰り返し流行した。一度来ると、その地方の牛が全滅する。国家の税収と食料が、直接、打撃を受けた。それまで家畜の治療は蹄鉄工と経験者が担い、体系だった知識が無かった。乗馬学校の教師クロード・ブルジュラが、王の認可を得てリヨンに学校を開く。解剖と、病理と、飼育を、教える。3年後にアルフォールにも作られ、以後、ヨーロッパ各国が真似た。獣医が、職業として制度になった最初である。
場所
45.76°N 4.84°E · フランス
関わった人(1)
クロード・ブルジュラAD1712年11月27日–AD1779年1月3日 · 開いた本文
牛疫は、牛や水牛がかかるウイルスの病気である。高い熱と下痢でやせ衰え、一度群れに入ると、多くの牛が死ぬ。致死率は場合によって8割から9割に達した。うつる力も強く、牛の移動や戦争の行軍とともに、国境をやすやすと越えていった。原因のウイルスは、人の麻疹のウイルスとごく近い仲間で、遠い昔に牛のウイルスから人の麻疹が分かれ出たと考えられている。
18世紀のヨーロッパでは、牛疫の大流行が何度も起きた。18世紀の初めから半ばにかけて、また後半にも、波のように流行が押し寄せた。この世紀にヨーロッパで死んだ牛の数は、億を超えるとも言われる。推計の幅は大きいが、被害が壊滅的だったことは確かである。牛は肉と乳だけでなく、畑を耕し荷を引く力であり、革の材料でもあった。牛が死ねば畑が荒れ、税の基礎である農業が傾き、軍の輸送も細る。牛疫は、国家そのものの問題だった。

それまで家畜の病気を診ていたのは、蹄鉄を打つ装蹄師や羊飼い、去勢を請け負う職人、経験を積んだ農民だった。知識は師から弟子へ口伝えで受け継がれ、経験の知恵と迷信が混じり合っていた。悪い血を抜けば治る、魔女が呪いをかけた、といった考えも根強かった。流行が来たとき、誰も筋道立った手の打ち方を知らなかった。
例外もあった。1710年代、牛疫がイタリアに入ると、教皇の侍医ジョヴァンニ・マリア・ランチージは、病気の牛を隔離し、疑わしい牛を殺し、死体を深く埋めるという策を説いた。教皇領でそれが実行され、流行は抑えられた。イギリスでも同じ頃、外科医トマス・ベイツが似た策を提案し、殺した牛の持ち主に補償金を払う形で実行されている。病気の正体は分からなくても、広がり方を見れば止め方は分かる。だが、この知恵がヨーロッパ全体に行き渡るには、それを学び、伝える人を育てる場が要った。

その場を作ったのが、クロード・ブルジュラ(クロード・ブルジュラ、1712〜1779年)である。リヨンの裕福な家に生まれ、法律を学んで弁護士になったが、まもなく辞めて騎兵隊に入った。軍を離れたのち、1740年ごろからリヨンの王立乗馬学校の長を務めた。馬に正しく乗るには馬の体を知らなければならない、と考えた彼は、馬の解剖を始め、馬術と馬の体のしくみについての本を書いた。ディドロとダランベールの『百科全書』にも、馬術や馬の病気についての項目を寄せている。彼は啓蒙の知識人たちの輪の中にいた。
繰り返す牛疫を見てきたブルジュラは、家畜の病気を扱う専門の学問と、それを担う専門の職業が要り、それを国が作らなければならない、と訴えた。この訴えを受け入れたのが、財務総監アンリ・ベルタンである。家畜が死ねば税収が減る、という分かりやすい理由が後押しした。1761年8月4日、国王の裁可が下り、翌1762年の初め、リヨンの町はずれの古い宿屋を改装した建物で、世界で最初の獣医学校が開かれた。最初の学生はわずか数人だった。その年のうちに、学生たちは牛の病気が流行している土地へ送られ、実際の手当てに当たった。
ブルジュラの教育は、解剖から始まった。まず動物の体の作りを知る。次に、馬、牛、羊、豚、犬を並べて、種によって違うところと同じところを比べる。比較解剖学の早い実践と言える。そのうえで病気のしくみ、飼育、繁殖、飼料、そして装蹄を教えた。蹄鉄を打つことは技能の一部であって、全部ではない、という位置づけだった。学生は各地方から選ばれて送られ、学び終えると故郷に戻って家畜を診る。知識を国のすみずみに行き渡らせる仕組みである。
1765年には、パリ近郊のアルフォールに二つ目の学校が開かれ、ブルジュラはそちらの指導にも当たった。各国もすぐに後を追った。トリノ、コペンハーゲン、ウィーン、ハノーファー、ドレスデン、ブダペスト、そして1791年にはロンドンに王立の獣医学校ができた。30年ほどのあいだに、獣医の学校はヨーロッパ中に広がった。その多くが、リヨンやアルフォールで学んだ人を教師に迎えている。
ブルジュラは厳格で、尊大な人だったと伝えられる。同じ時代の人々との争いが多く、アルフォールの学校の運営をめぐっても対立があった。医学の知識そのものは当時の水準を大きく超えるものではなく、瀉血を多く用いてもいる。彼が成し遂げたのは、制度を作ったことだった。家畜の医学は教えることのできる知識であり、それを教える学校を国が持つべきだ、という二つの考えを、形にしたのである。獣医が一つの職業として制度に組み込まれたのは、ここが最初だった。1779年、彼は学校の長の座にあるまま世を去った。
19世紀には、細菌の研究が獣医学に流れ込んだ。ルイ・パスツールは家畜の炭疽や鶏コレラを研究してワクチンを作り、ロベルト・コッホは炭疽菌や結核菌を突き止めた。牛の結核が牛乳を通じて人にうつることが分かり、家畜の病気は人の健康の問題でもあることがはっきりした。牛疫そのものも、19世紀の末にはアフリカに入って牛の群れを壊滅させ、それを頼りに暮らす人々を飢えに追い込んだ(アフリカの牛疫)。
20世紀に入ってワクチンが作られ、国際的な取り組みが重ねられた末、2011年、牛疫は地球上から根絶されたと宣言された(牛疫の根絶)。人の天然痘に次いで、人類が根絶した二つ目の病気である。いまでは、人の健康と動物の健康と環境はひとつながりだとする「ワン・ヘルス」という考え方が広く唱えられている。新しく現れる感染症の多くは、動物から人へうつったものだからである。リヨンの古い宿屋で始まった学校は、その考え方の制度上の出発点の一つに数えられる。