概要
レネップ生まれ、オランダ育ち。他人の悪戯の罪をかぶってギムナジウムを退学になり、チューリヒ工科大学へ(入学試験なしで入れた)。ヴュルツブルク大学の学長のとき、X線。特許を取らず、ノーベル賞の賞金を大学に寄付した。第一次大戦後のインフレでほとんど無一文になり、1923年に腸癌で死んだ。「レントゲン」は日本語でX線写真の名前になった。
関わったできごと(1)
X線の発見AD1895年11月8日 · 見つけた本文
1845年3月27日、プロイセンのレネップ(いまレムシャイト)。父は織物商。3歳のとき、母の故郷オランダのアペルドールンへ移った。オランダ国籍も持った。
ユトレヒトの工業学校。教師を風刺した絵を、他の生徒が黒板に描いた。レントゲンは犯人を知っていたが、言わなかった。退学。中等教育の修了証がないので、大学に正式に入れなかった。1865年、ユトレヒト大学に聴講生。1865年、チューリヒ工科大学(入学試験を課さず、面接で入れた)。機械工学。1869年、チューリヒ大学で物理学の博士。
指導者アウグスト・クント(物理学者)について、ヴュルツブルク、ストラスブール。1874年、ストラスブール大学の私講師(中等教育の修了証がないので、ヴュルツブルクでは私講師になれなかった)。1879年、ギーセン大学教授。1888年、ヴュルツブルク大学教授。1894年、学長。
研究は地味で、正確だった。気体の比熱、結晶の熱伝導、水と油の圧縮、電気と磁気(1885年、誘電体を動かすと磁場ができることを示した。「レントゲン電流」)。48編の論文。
1895年11月8日。クルックス管、ルームコルフのコイル、黒い厚紙、そして白金シアン化バリウムの蛍光板。緑の光。
彼は誰にも言わずに7週間、実験した。ノートは取ったが、後に遺言で焼かれた(残っている記録は少ない)。実験の内容は、論文から逆にたどるしかない。
12月28日、「新種の放射線について(第一報)」。ヴュルツブルク物理医学協会の会報に。慣例の口頭発表なしで、印刷を頼んだ(急いだ)。1896年1月1日、抜き刷りと、手の写真を、ヨーロッパの主要な物理学者(ケルヴィン、ポアンカレ、ボルツマン、レーナルト、シュスター)に郵送した。
1月5日、ウィーンの『ディー・プレッセ』が一面で報じた。1月6日、ロンドンの『デイリー・クロニクル』が電信で伝えた。1月中に、世界中の新聞が「透視光線」を書き、女性用の「X線を通さない下着」が広告された。ニュージャージーの議員が「劇場の望遠鏡にX線を使うことを禁じる」法案を出した。
1月23日、ヴュルツブルクで公開講演(生涯で唯一のX線についての講演)。解剖学者アルベルト・フォン・ケリカーの手を、その場で撮って、現像して見せた。ケリカーが「レントゲン線と呼ぼう」と提案し、満場が賛成した。レントゲン自身は最後まで「X線」と呼んだ。
彼は特許を取らなかった。「私の発見は、全人類に属する。特許や許諾で、この線の使用が特定の会社に制限されるようなことがあってはならない」。
1900年、ミュンヘン大学教授(バイエルン政府の強い要請で移った)。1901年12月10日、第1回ノーベル物理学賞。賞金5万クローネを、ヴュルツブルク大学の研究のために寄付した。プロイセンから贈られようとした貴族の称号(フォン)を辞退した。
1919年、妻アンナ・ベルタが死んだ(長く腎臓を病み、痛みのためにモルヒネを常用していた)。1920年、退官。第一次大戦後のハイパーインフレで、貯金がほとんど無価値になった。友人が食糧を送った。1923年2月10日、ミュンヘンで、腸癌で死んだ。77歳。ギーセンの家族の墓へ。
遺言で、私信と、研究のノートは焼かれた。何を考えて7週間を過ごしたのかは、分からない。