人物

ヴィルヘルム・レントゲン

Wilhelm Röntgen
AD1845年3月27日 – AD1923年2月10日(享年77)
ドイツ重要度 5

概要

レネップ生まれ、オランダ育ち。他人の悪戯の罪をかぶってギムナジウムを退学になり、チューリヒ工科大学へ(入学試験なしで入れた)。ヴュルツブルク大学の学長のとき、X線。特許を取らず、ノーベル賞の賞金を大学に寄付した。第一次大戦後のインフレでほとんど無一文になり、1923年に腸癌で死んだ。「レントゲン」は日本語でX線写真の名前になった。

関わったできごと(1)

X線の発見AD1895年11月8日 · 見つけた

本文

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンは、1845年3月27日、プロイセン王国のライン地方の町レネップ(いまのレムシャイトの一部)に、織物商の一人息子として生まれた。母はオランダの人で、3歳のとき一家は母の故郷に近いオランダのアペルドールンへ移った。少年は野山を歩き回るのが好きで、機械いじりは得意だったが、学校の成績が際立っていたわけではない。

ヴィルヘルム・レントゲンの肖像
ヴィルヘルム・レントゲンの肖像Wikimedia Commons Public domain

ユトレヒトの技術学校に通っていた17歳のころ、事件が起きた。級友の一人が、嫌われ者の教師をからかう似顔絵を描いた。教師に犯人を問われたレントゲンは、知っていながら名を明かさなかった。彼は犯人をかばった罰で退学させられた。この一件で、大学に進むのに必要な中等学校の修了資格を得られなくなった。

ユトレヒト大学では聴講生にしかなれなかった。道を開いたのは、修了資格がなくても入学試験に通れば入れるスイスのチューリヒ工科大学だった。1865年に入学し、機械工学を学んだ。ここで物理学者アウグスト・クントに出会い、物理学に進むことを決めた。1869年、チューリヒ大学で気体の研究によって博士号を得た。同じころ、チューリヒの居酒屋の娘アンナ・ベルタ・ルートヴィヒと知り合い、1872年に結婚した。二人に子はなく、のちにベルタの姪を養女に迎えている。

1896年1月23日にレントゲンが撮影したアルベルト・フォン・ケリカーの手のX線写真
1896年1月23日にレントゲンが撮影したアルベルト・フォン・ケリカーの手のX線写真Wikimedia Commons Wilhelm Röntgen ; current version created by Old Moonraker . · Public domain

クントの助手として、ヴュルツブルク、ストラスブールの大学を渡り歩いた。正規の学歴がないことが壁になり、ヴュルツブルクでは大学の講師になることを認められなかったが、新しく開かれたストラスブール大学が彼を受け入れた。ギーセン大学の教授を経て、1888年にヴュルツブルク大学の物理学の教授となり、1894年には学長に選ばれた。研究は地味で、測定は驚くほど正確だった。気体の比熱、結晶の熱の伝わり方、液体の圧縮の測定。電気を帯びにくい物質を電場の中で動かすと磁気が生じることを実験で確かめた仕事は、のちに「レントゲン電流」と呼ばれて評価された。

1895年11月8日の夕方、50歳の彼は、ガラスの真空管に高い電圧をかけて放電させる実験をしていた。管を黒い厚紙ですっぽり覆い、光がもれないようにして部屋を暗くした。すると、少し離れた机の上に置いてあった、蛍光を発する薬品を塗った紙が、かすかに緑色に光った。管から出る何かが、厚紙を突き抜けて届いている(X線の発見)。

ヴィルヘルム・レントゲンの肖像写真
ヴィルヘルム・レントゲンの肖像写真Wikimedia Commons Erwin Hanfstaengl · Public domain

彼は誰にも告げず、それから7週間、研究室にこもった。食事も寝床も研究室に運ばせたと伝えられる。光線は紙も木も、厚い本も通り抜けたが、鉛には遮られた。手をかざすと、蛍光の板に手の骨の影が浮かんだ。正体が分からないので、彼は数学で未知の量を表す文字にならって「X線」と名づけた。12月22日、妻ベルタの手を写真の乾板に載せて撮影した。指の骨と結婚指輪がはっきり写った写真を見たベルタは、自分の死を見た、と言ったと伝えられる。

12月28日、彼は第一報の論文を地元の学会の会報に出した。慣例の口頭の発表を待たずに印刷を頼んだのは、先を越されることを恐れたからだと考えられている。1896年の元日、論文の抜き刷りに手の骨の写真を添えて、ヨーロッパの主な物理学者たちに郵送した。1月5日にはウィーンの新聞が一面で報じ、数日のうちに電信で世界中に知れ渡った。体の中が見える光線は大評判になり、新聞には、X線を通さない下着の広告まで現れた。医師たちはすぐに、骨折や体内に残った弾丸を探すのに使い始めた。

レントゲンが妻アンナ・ベルタの手を撮影した、世界初のX線写真
レントゲンが妻アンナ・ベルタの手を撮影した、世界初のX線写真Wikimedia Commons Wilhelm Röntgen · Public domain

1月23日、彼はヴュルツブルクの学会で、生涯でただ一度、X線について公開の講演をした。会場で老解剖学者ケリカーの手を撮影して見せると、ケリカーは、この光線をレントゲン線と呼ぼうと提案し、満場の拍手を受けた。だが彼自身は最後まで「X線」と呼び続けた。

彼はこの発見で特許を取らなかった。発見は人類全体のものであり、特定の会社が使い方を独占するようなことがあってはならない、というのが彼の考えだった。X線の研究で得た名声にも距離を置いた。翌年、フランスのベクレルが、X線の研究に刺激されてウランの放射線を見つけ、やがてマリ・キュリーらの放射能の研究が始まる(ラジウムの発見)。物理学の新しい時代は、彼の机の上の小さな緑の光から開けた。

1900年、バイエルン政府の強い求めに応じてミュンヘン大学に移った。1901年12月、第1回のノーベル物理学賞を受けた(ノーベル賞の始まり)。授賞式には出たものの、慣例となる記念の講演はせず、賞金は全額をヴュルツブルク大学の研究のために寄付した。授けられかけた貴族の称号も断っている。彼は人前に出ることを嫌い、記者や講演の依頼を避けた。

晩年は寂しかった。長く病に苦しんだ妻ベルタが1919年に死んだ。第一次世界大戦のあとのドイツのハイパーインフレで、蓄えはほとんど紙くずになった。友人たちが食べ物を送って彼を助けた。1923年2月10日、ミュンヘンで腸の癌で死んだ。77歳だった。遺灰はギーセンの家族の墓に納められた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

遺言により、彼の手紙や研究のノートの多くは死後に焼かれた。あの7週間、彼が研究室で何を考え、どんな順序で確かめていったのかは、論文から逆にたどるしかない。彼の名は、ドイツ語圏や日本では、X線で体の中を写すこと、またその写真そのものの呼び名として、日々の言葉の中に生きている。

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