人物

フリッツ・ハーバー

Fritz Haber
AD1868年12月9日 – AD1934年1月29日(享年65)
ドイツ帝国重要度 4

概要

空気の窒素から肥料を作る方法を見つけ、いまの人口の半分を養っている。同じ人が毒ガス戦を指揮した。ユダヤ人として国を追われて死ぬ。

所属

ドイツ帝国

関わったできごと(1)

ハーバー・ボッシュ法AD1913年 · 方法を見つけた

本文

1868年12月9日、プロイセン領シレジアの都市ブレスラウ(いまのポーランドのヴロツワフ)に生まれた。家は染料や薬品を扱うユダヤ人の商家だった。母は彼を産んで3週間ほどで亡くなった。父とはしばしばぶつかったが、化学の道を選び、ベルリンやハイデルベルクの大学で学んで博士になった。

フリッツ・ハーバーの肖像
フリッツ・ハーバーの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

20代の半ばにユダヤ教からキリスト教へ改宗した。当時のドイツでは、ユダヤ人のままでは大学で職を得ることが難しかった。ハーバーは、自分を何よりもまずドイツ人だと考えていた。1894年からカールスルーエの工科大学に勤め、気体の反応や電気化学の研究で頭角を現した。1901年、化学者クララ・イマーヴァールと結婚した。クララはブレスラウ大学で化学の博士号を取った最初の女性だった。

そのころ世界は、肥料の不足を心配していた。作物が育つには窒素が要る。空気の8割は窒素だが、植物はそれをそのままでは使えない。畑に入れる窒素は、南米チリの鉱山から掘り出す硝石や、海鳥の糞の堆積に頼っていて、それもいずれ尽きると考えられていた。イギリスの化学者クルックスは1898年、このままでは小麦が足りなくなり、人類は飢えると警告していた。

ハーバーは、空気中の窒素と水素を高い圧力と高い温度の下で触媒に触れさせ、アンモニアを作る方法を探った。1909年7月、助手のル・ロシニョールとともに、机の上に載るほどの装置から、アンモニアが少しずつしたたり落ちるのを見せた。ドイツの大手化学会社の技術者カール・ボッシュがこれを巨大な工場の規模に広げ、1913年、生産が始まった(ハーバー・ボッシュ法)。土地の広さが食べ物の量を決めるという限界を、化学が外したと言われる発明である。

ハーバー・ボッシュ法に関わる図版:Fritz Haber
ハーバー・ボッシュ法Wikimedia Commons The Nobel Foundation · Public domain

1911年、ベルリン郊外にできたカイザー・ヴィルヘルム研究所の物理化学部門の所長になった。アインシュタインをベルリンに招く手助けもし、二人は長く友人だった。

1914年、第一次世界大戦が始まった。アンモニアは肥料だけでなく、火薬の原料にもなる。イギリスの海上封鎖でチリの硝石が入らなくなったドイツが戦い続けられたのは、この方法があったからでもある。ハーバーはさらに、毒ガスの開発を自ら買って出た。塹壕に閉じこもって動かない戦線を、ガスで打ち破ろうと考えたのである。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1915年4月22日、ベルギーのイーペルで、ドイツ軍は5000本を超えるボンベから塩素ガスを放った(イーペルの毒ガス)。風に乗った黄緑色の雲が連合軍の塹壕を覆い、兵士たちは窒息して倒れた。ハーバーは現場で放出を指揮し、その功で大尉に取り立てられた。平和のときは人類のために、戦争のときは祖国のために、というのが彼の考えだったと伝えられる。

その10日ほど後の5月2日未明、妻クララが自宅の庭で、夫の拳銃を使って自ら命を絶った。12歳の息子が最初に駆けつけた。ハーバーは翌日、東部戦線へガス戦の指揮に向かった。クララが夫の毒ガスの研究に反対していたことが原因だとよく語られるが、それを裏づける同時代の記録は乏しく、確かなことは分かっていない。

博士号を取得した頃(1891年)
博士号を取得した頃(1891年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

戦争が終わると、連合国はハーバーを戦争犯罪人の名簿に載せた。一時はスイスへ逃れたほどである。そのさなかの1919年、前年分のノーベル化学賞が、アンモニアの合成に対して贈られた。授賞には強い批判が起きた。

戦後のドイツは莫大な賠償金を課された。ハーバーは海水に溶けている金を取り出して賠償に充てようと、数年かけて世界の海の水を調べたが、含まれる量は思ったよりずっと少なく、計画は実らなかった。彼の研究所では殺虫剤の研究も行われ、その流れから生まれた青酸系のガス「チクロン」は、のちにナチスの絶滅収容所で使われることになる(ホロコースト)。ハーバーの親族にも、収容所で命を落とした人がいる。

ホロコーストに関わる図版:Selection on the ramp at Auschwitz-Birkenau, 1944 (Auschwitz Album) 1b
ホロコーストWikimedia Commons Bernhard Walter · Public domain

1933年、ナチスが政権を握った(ナチスの政権掌握)。ユダヤ人の公務員を辞めさせる法律ができた。前線で戦ったハーバー自身は免除の対象だったが、研究所のユダヤ人の部下を解雇するよう命じられた。彼はそれを拒み、自分は研究者を能力と人柄で選んできたのであって、血筋で選ぶつもりはない、と書いた辞表を出した。国に尽くしたつもりの人が、国から追われたのである。

イギリスのケンブリッジに一時身を寄せ、パレスチナに新しくできる研究所へ招かれていたが、心臓が弱っていた。1934年1月29日、療養先へ向かう途中のスイスのバーゼルで亡くなった。65歳だった。

BASFの実験室にて
BASFの実験室にてWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

いま世界の人々の体を作っている窒素の半分ほどは、この方法で作られた肥料に由来すると見積もられている。何十億もの人を養う方法と、化学兵器による戦争の始まりが、同じ一人の手にある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1868年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →