人物

ルネ・レオミュール

René Antoine Ferchault de Réaumur
AD1683年2月28日 – AD1757年10月17日(享年74)
フランス重要度 3

概要

ラ・ロシェルの生まれ。裕福で、生涯を研究に費やした。鋼の組織を調べ、可鍛鋳鉄の製法を開き、アルコールの膨張による温度計と、氷点0度・沸点80度の目盛を作った。六巻の『昆虫誌』は観察の精密さで知られる。鳥の消化を、金属の管に肉を入れて飲ませる実験で調べた。1719年、雀蜂の巣が木の繊維からできていることに触れ、木から紙が作れると述べた。弟子と助手の功績を自分のものにしない人物だったと評される。

関わったできごと(1)

襤褸と紙AD1719年 · 指摘した

本文

ルネ・アントワーヌ・フェルショー・ド・レオミュールは1683年2月28日、フランス西岸の港町ラ・ロシェルに生まれた。父は裁判所の評定官で、家は裕福だった。父は彼がまだ幼いうちに死んだが、遺産が残った。彼は生涯、生活のために働く必要がなく、その財産を研究に注ぎ込んだ。生涯、結婚もしなかった。

ルネ・レオミュールの肖像
ルネ・レオミュールの肖像Wikimedia Commons Metzeroth · Public domain

パリに出た彼は、数学で頭角を現し、1708年、20代半ばで科学アカデミーの会員に選ばれた。以後およそ50年、アカデミーの中心にいた。国の産業と技術を調べ上げる大きな仕事も任され、その関心は数学から金属、生き物へと広がっていった。

最初の大きな仕事は鉄だった。鋼と鋳鉄と錬鉄は何が違うのか。当時はそれが分かっていなかった。1722年の『錬鉄を鋼に変える技術』で、彼は破断面の組織を細かく観察し、系統立った実験を重ねた。違いを「硫黄と塩」という当時の言葉で説明しているが、いまで言えば炭素の量の違いに、かなり近いところまで迫っていた。そして、もろい鋳鉄を長い時間かけて熱し、粘りを持たせる可鍛鋳鉄の作り方を開いた。この方法は19世紀まで使われた。国王はこの功績に年金を与えようとしたが、彼はそれをアカデミーの実験の費用に回してほしいと願い出た。

鹿の頭部解剖図、ウマバエの幼虫を示す
鹿の頭部解剖図、ウマバエの幼虫を示すWikimedia Commons Reaumur · Public domain

1730年には温度計を作った。中に入れたのは水銀ではなく、水で薄めたアルコールである。氷が融ける温度を0度、水が沸く温度を80度とした。なぜ80なのか。彼の使った液体が、氷点から沸点までのあいだに、体積が1000から1080へとふくらんだからだ。千分の一の膨張をそのまま1度にしたのである。のちに水銀を使って作り直された「レオミュール度」は、もとの目盛と少しずれた形で広まり、19世紀まで、ドイツやロシア、フランスの一部で日常に使われた。レフ・トルストイやフョードル・ドストエフスキーの小説に出てくる気温は、この目盛である。いまも、イタリアのチーズ作りなどで使う職人がいる。12年後、スウェーデンでは温度の目盛が提案される。

彼の名を最も高めたのは、虫の観察だった。1734年から1742年にかけて出した『昆虫誌のための覚え書き』は全6巻に及び、なお未完に終わった。ハチ、アリ、チョウ、カイコ、水に棲む虫。彼は細かな図を描かせ、見たことと推し量ったことをはっきり分けて書いた。ミツバチの巣の六角形の部屋、アブラムシが雄なしで子を産むらしいこと。彼のもとで学んだ人々がそれを確かめていった。「昆虫学の父」と呼ばれることがあるのはそのためだ。

『昆虫誌』(レオミュール著、1734年)
『昆虫誌』(レオミュール著、1734年)Wikimedia Commons René-Antoine Ferchault de Réaumur · Public domain

鳥の消化も調べた。食べたものは胃ですりつぶされるのか、発酵するのか、腐るのか。1752年、彼は飼っていたトビに、両端を金網でふさいだ小さな金属の筒を飲ませた。中には肉が入っている。筒に守られた肉はすりつぶされようがない。吐き戻させて中を見ると、肉は溶けていた。胃の中で、化学のはたらきが起きている。さらに彼はスポンジを飲ませて胃の液を吸わせ、それを絞り出して、器の中で肉にかけた。肉はやはり溶けた。胃液のはたらきを体の外で示した、最初の実験とされる。イタリアのスパランツァーニがこの研究を引き継いだ。

もう一つ、のちに名高くなる一節がある。1719年、彼はアカデミーへの報告の中で、スズメバチの巣が古い木や乾いた植物の繊維からできていることに触れ、人間も、ぼろ布を使わずに同じように紙を作れるはずだ、という趣旨のことを書いた(襤褸と紙)。当時の紙はぼろ布を原料にしていて、布の不足が悩みの種だった。だが彼自身はこれを試さなかった。関心はハチにあって、紙作りにはなかったのである。この思いつきが木材パルプの紙として実るまでには、120年以上かかった。

同時代の人々は、彼が弟子や助手の成果を自分の名で発表しなかったことを、くり返し書きとめている。当時、それは当たり前のことではなかった。一方で、彼は博物学者のビュフォンと深く対立した。レオミュールは細部の観察を積み上げる。ビュフォンは大きな体系を華やかな文章で描く。人気はビュフォンのほうがはるかに上で、その『博物誌』は大当たりした。レオミュールの『昆虫誌』は専門家には読まれたが、広く読まれることはなかった。

1757年10月17日、レオミュールは田舎の領地で落馬し、その傷がもとで死んだ。74歳だった。膨大な標本と原稿はアカデミーに遺された。その一部がビュフォンの手に渡って散り散りになったとも伝えられるが、いきさつには諸説ある。観察を積み重ねる彼のやり方は、その後の博物学と実験生物学の土台になった。

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