ジョゼフ・ニーダム
概要
ケンブリッジの生化学者が、中国語を学び、戦時の中国を旅して、中国の科学技術史を書く仕事に生涯を変えた。全27冊はまだ続いている。
関わったできごと(1)
『中国の科学と文明』の刊行AD1954年 · 著者本文
1900年12月9日、ロンドンで生まれた。父は麻酔を専門とする医師、母は作曲家で、一人っ子だった。両親の仲は悪く、少年は本と父の書斎に逃げ込んだ。父は彼に哲学と神学の本を読ませ、科学と宗教の両方を考える習慣を植えつけた。生涯、敬虔な英国国教会の信徒であり続け、同時に社会主義者でもあった。

ケンブリッジ大学のゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジに入り、生化学を学んだ。ビタミンの発見で知られるホプキンズの研究室で、胚が育つときの化学的な変化を研究した。1931年、30歳で全3巻の大著『化学的発生学』を出し、この分野の第一人者になった。同じ研究室の生化学者ドロシー・モイルと1924年に結婚しており、彼女も優れた研究者だった。左派の科学者として、科学と社会の関係を論じる文章も多く書いた。
転機は1937年に訪れた。中国から3人の大学院生が研究室にやってきた。その一人が、南京出身の生化学者、魯桂珍である。彼女たちと話すうちに、ニーダムは中国の文明に強く惹かれた。中国語を習い始め、漢字を一つ一つ覚えていった。のちに彼は、30代で改宗にも似た体験をした、と語っている。紙、印刷、火薬、羅針盤。西洋が自分のものと思ってきた発明の多くが、中国から来ていたのではないか。魯桂珍とはこのころから深い関係になり、生涯の共同研究者となった。
1942年、日中戦争のさなかの中国へ、イギリス政府の派遣で渡った。日本軍に追われて内陸に移った大学や研究所は、本も器具も薬品も足りなかった。重慶に中英科学合作館を開き、トラックで各地を回って、疎開した研究者たちに科学雑誌や器具を届け、イギリスとの間で論文をやりとりする手助けをした。旅の途中、道ばたの寺や古い町で、中国の古い技術の痕跡を見て回り、古書を買い集めた。

1946年、中国を離れた彼は、新しく作られたユネスコ(ユネスコの設立)の自然科学部門の初代の長に就いた。機関の名に科学の頭文字を入れ、ユネスコを教育と文化だけでなく科学の機関にすることを強く主張した一人が彼だった。2年後にケンブリッジに戻り、本格的に中国の科学と技術の歴史を書く仕事に取りかかった。
1952年、彼の評判に影を落とす出来事が起きる。朝鮮戦争のさなか、中国と北朝鮮は、アメリカ軍が細菌兵器を使ったと非難していた。ニーダムは国際科学委員会の一員として中国に招かれ、調査報告書は、細菌兵器が使われたと結論づけた。西側では、共産主義の宣伝に利用されたと激しく批判され、アメリカ入国を長く拒まれた。彼はこの結論を生涯撤回しなかった。真相はいまも議論が続いている。

1954年、『中国の科学と文明』(『中国の科学と文明』の刊行)の第1巻が出た。最初は全7巻の予定だった。だが中国の数学、天文学、地理、物理、化学、生物、医学、そして機械、建築、航海、火薬、製紙と、扱う範囲は書くほどに広がり、巻は分冊を重ねていった。魯桂珍をはじめ、世界各地の研究者が分担して書くようになった。羅針盤が中国で生まれ、やがて海に出て(羅針盤が海に出る)、宋の時代に活字が作られた(宋の活字と羅針盤)といった流れを、膨大な漢籍から掘り起こして示した。
この仕事を通じて彼が問い続けたのが、いわゆる「ニーダムの問い」である。中国は長い間、科学技術で西洋より進んでいた。それなのに、なぜ近代科学は中国ではなくヨーロッパで生まれたのか。彼は官僚制や商人の地位などに答えを探したが、決定的な答えは出さなかった。問いの立て方そのものへの批判もある。それでも、この問いは科学史と比較文明論の大きなテーマであり続けている。
1966年から10年間、母校キーズ・カレッジの学寮長を務めた。漢字の書ける学寮長は珍しく、中国名を「李約瑟」といった。民族舞踊のモリスダンスを愛し、晩年まで踊った。1987年、妻ドロシーが亡くなった。2年後の1989年、彼は88歳で魯桂珍と結婚した。50年越しの関係だった。魯桂珍は2年後に亡くなった。
1995年3月24日、ケンブリッジで死んだ。94歳だった。ケンブリッジには彼の名を冠したニーダム研究所があり、シリーズは彼の死後もそこで書き継がれてきた(物語「『中国の科学と文明』で読む技術の歴史」)。一人の生化学者の好奇心が、一つの研究所と、中国の技術を世界史の中に置き直す仕事を生んだ。