できごと

リスターの消毒法

Lister's antisepsis
AD1867年
重要度 5
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1867年グラスゴー
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1867年の版図を描いています(22勢力)。

概要

グラスゴーの外科医は、手術は成功しても半分近くが感染で死ぬのを見ていた。パスツールの「腐敗は空気中の微生物が起こす」を読んで、下水の消毒に使われていた石炭酸を、傷と器具と手と、手術室の空気に使った。彼の病棟の切断手術の死亡率が45%から15%に落ちた。『ランセット』の5本の論文。「消毒」から「無菌」へ。外科が体の中を開けられるようになった。

場所

グラスゴー
55.86°N -4.25°E · イギリス・スコットランド

関わった人(1)

ジョゼフ・リスターAD1827年4月5日–AD1912年2月10日 · 消毒した

本文

1846年、ボストンでエーテル麻酔の公開手術が成功し(エーテル麻酔の公開)、翌年にはクロロホルムも使われ始めた(のちに女王の無痛分娩で広く受け入れられる)。手術は激痛に耐えるものではなくなり、外科医は時間をかけて、より大きく、より深く切れるようになった。手術の件数は増えた。そして、患者は死んだ。手術そのものは成功しても、数日のうちに傷が赤く腫れ、膿み、高熱が出て、多くが命を落とした。病院壊疽、膿血症、丹毒、敗血症。ロンドンやパリの大病院では、手足の切断手術を受けた患者の4割から6割が死んだと言われる。エディンバラの産科医ジェイムズ・シンプソンは1869年、病院の手術台に横たわる者は、ワーテルローの戦場のイギリス兵よりも死ぬ危険にさらされている、と書いた。

当時の外科医は、なぜ傷が膿むのかを知らなかった。有力だったのは、病院に淀んだ悪い空気(瘴気)が傷を腐らせるという考えである。傷が膿むのは治る過程の一部だとさえ思われ、ある種の膿は「良い膿」と呼ばれた。外科医は血と膿で固まったフロックコートを着たまま手術を続け、それを経験の証として誇る者もいた。器具は洗われずに次の患者へ使われ、手を洗う習慣もなかった。ウィーンでは1847年、イグナーツ・ゼンメルワイスが、医師の手が産婦に死をもたらしていると突き止めていたが(ゼンメルワイスの手洗い)、その主張は医学界から退けられていた。

ジョゼフ・リスターの肖像(1902年)
ジョゼフ・リスターの肖像(1902年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ジョゼフ・リスターは1827年、ロンドン近郊のクエーカー教徒の家に生まれた。父のジョゼフ・ジャクソン・リスターはワイン商だったが、アマチュアの科学者として顕微鏡のレンズの色のにじみを抑える工夫で名を残し、王立協会の会員にもなった人である。息子は幼いころから顕微鏡に親しんで育った。ロンドンで医学を修めたのち、エディンバラの名外科医ジェイムズ・サイムのもとで学び、その娘アグネスと結婚した。1860年、33歳でグラスゴー大学の外科の教授となり、翌年から王立診療所の外科病棟を受け持った。そこで彼は、新しく建てられた病棟でさえ、術後の患者が次々と感染で死んでいくのを目の当たりにした。

1865年、大学の化学の教授トマス・アンダーソンが、リスターにフランスのルイ・パスツールの研究を教えた。パスツールは、ぶどう酒の発酵や肉汁の腐敗が、空気そのものではなく、空気中に漂う目に見えない微生物によって起きることを実験で示していた(発酵は生き物の仕事である)。リスターは、傷が膿むのも同じことではないかと考えた。空気を傷から遮断することはできない。それなら、傷に入り込む微生物を殺せばよい。

メアリー・リスターによるアプトン・ハウスの素描
メアリー・リスターによるアプトン・ハウスの素描Wikimedia Commons Mary Lister (1820-1894), Joseph Lister's older sister. · Public domain

微生物を殺す薬として、彼が目をつけたのは石炭酸(フェノール)だった。イングランド北部の町カーライルでは、下水の悪臭を消すために汚水に石炭酸を撒いていて、それを撒いた畑では、そこで草を食む牛の病気まで減ったと伝えられていた。

1865年8月12日、11歳の少年ジェイムズ・グリーンリーズが、荷車の車輪に脚をひかれて運び込まれた。すねの骨が折れて皮膚を突き破る、開放骨折だった。当時、骨が外気に触れた骨折はほぼ確実に膿み、脚を切断するか、そうしなければ死ぬことが多かった。リスターは、石炭酸に浸した布で傷を覆い、その上を薄い金属の箔でふさいで、薬が乾いて飛ばないようにした。傷は膿まなかった。6週間後、少年は自分の脚で歩いて病院を出た。

ジョゼフ・リスターの名を冠したホテル(イングランド・ヒッチン、2017年撮影)
ジョゼフ・リスターの名を冠したホテル(イングランド・ヒッチン、2017年撮影)Wikimedia Commons Jack1956 · CC0

リスターは症例を重ね、1867年3月から7月にかけて、医学誌『ランセット』に、開放骨折や膿瘍の新しい治療法について5回にわたる論文を発表した。同じ年の秋には、イギリス医師会の大会で、手術における消毒の原理を論じた。彼の病棟では、切断手術を受けた患者の死亡率が、1864年から66年の約46パーセントから、1867年から69年には約15パーセントに下がった。

方法は年ごとに徹底されていった。外科医の手を石炭酸の溶液で洗う。器具を手術の前に溶液に浸しておく。傷を縫う糸も、石炭酸で処理した腸線を使い、体の中で溶けて吸収されるようにした。1871年からは、手術室の空気そのものに石炭酸の霧を吹きつける噴霧器を使った。外科医も患者も霧にむせ、手の皮膚が荒れた。のちに空気中の微生物はそれほど大きな危険ではないと分かり、リスターは1890年、噴霧器の使用をやめた。

Grove House from Bruce Castle Museum and Archive collections
Wikimedia Commons WD Sparkes · Public domain

イギリスの医学界の反応は冷ややかだった。目に見えない生き物が傷を腐らせるという考えは、多くの外科医にとって荒唐無稽に聞こえ、面倒な手順をあざける者も多かった。むしろドイツやオーストリア、アメリカの外科医たちが先に彼の方法を取り入れ、普仏戦争の野戦病院でもその効果が試された。1871年、リスターはスコットランドのバルモラル城で、ヴィクトリア女王の脇の下にできた膿瘍を、消毒の手順を守って切開した。1877年、彼はロンドンのキングズ・カレッジ病院に移り、骨折した膝の皿を、皮膚を切り開いて銀の針金で縫い合わせる手術を行ってみせた。消毒なしには考えられない、健康な関節を開く手術だった。

1870年代から80年代にかけて、ロベルト・コッホらが、特定の細菌が特定の病気を起こすことを次々と証明すると、リスターの理論は揺るがないものになった。そして外科は、傷に入った細菌を薬で殺す「消毒(アンチセプシス)」から、そもそも細菌を持ち込まない「無菌(アセプシス)」へと進んでいく。1880年代のドイツでは、器具や布を高温の蒸気で滅菌する方法が広まった。アメリカの外科医ウィリアム・ハルステッドは、手術室の看護師の手が消毒液でひどく荒れるのを見て、ゴム会社に薄いゴムの手袋を作らせた。その看護師キャロライン・ハンプトンは、のちに彼の妻になった。1890年代には、手術着、帽子、マスクも加わった。消毒と無菌の手法のおかげで、外科医は腹や胸や頭蓋の中まで、安心して切り開けるようになったのである。

生理学者トマス・ウォートン・ジョーンズの肖像
生理学者トマス・ウォートン・ジョーンズの肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC BY 4.0

リスターは男爵に叙せられ、王立協会の会長も務めた。1912年に84歳で死ぬと、ウェストミンスター寺院で葬儀が営まれ、遺言どおりロンドン北部のハムステッドの墓地に、先立った妻と並んで葬られた。彼の名は、1879年にアメリカで作られた消毒液リステリン(本人は関わっていない)と、のちに見つかった細菌リステリアの名に残っている。

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