概要
グラスゴーの外科医は、手術は成功しても半分近くが感染で死ぬのを見ていた。パスツールの「腐敗は空気中の微生物が起こす」を読んで、下水の消毒に使われていた石炭酸を、傷と器具と手と、手術室の空気に使った。開放骨折の死亡率が45%から15%に落ちた。『ランセット』の5本の論文。「消毒」から「無菌」へ。外科が体の中を開けられるようになった。
場所
55.86°N -4.25°E · イギリス・スコットランド
関わった人(1)
ジョゼフ・リスターAD1827年4月5日–AD1912年2月10日 · 消毒した本文
19世紀の半ば、麻酔(1846年)が来て、手術は痛くなくなった。手術の数が増えた。そして、患者は死んだ。「病院壊疽」「膿血症」「丹毒」「敗血症」。ロンドンやパリの大病院では、切断手術の死亡率が40〜60%。「病院で手術を受ける患者は、ウォータールーの戦場の兵士より死ぬ確率が高い」(ジェイムズ・シンプソン、1869年)。外科医は、血と膿のついたフロックコートを誇りにしていた(経験の証拠として)。膿は「良性の膿(プス・ボヌム・エト・ラウダビレ)」で、治癒の一部だと考えられていた。
ジョゼフ・リスター。クエーカーの家に生まれた。父ジョゼフ・ジャクソン・リスターは、ワインの商人で、顕微鏡の対物レンズの色収差を消す方法を発明した人(1830年)。息子は、子供の頃から顕微鏡を覗いていた。
1860年、グラスゴー大学の外科教授。王立診療所の病棟の死亡率に悩んだ。1864年か1865年、化学の教授トマス・アンダーソンが、パスツールの論文を読ませた。「腐敗と発酵は、空気そのものでなく、空気中の微生物が起こす」。リスターは、傷の化膿も同じだと考えた。空気を遮断できないなら、微生物を殺す。
石炭酸(フェノール)。カーライルの町が、下水の悪臭と、牛の寄生虫を防ぐために、汚水に撒いていた。
1865年8月12日、11歳のジェイムズ・グリーンリーズ。荷車に轢かれて、脛骨の開放骨折。当時、開放骨折は切断か、死か(骨が外気に触れると、必ず膿む)。リスターは、石炭酸に浸した麻布で傷を覆い、錫箔で覆って乾かないようにした。膿まなかった。6週間で、少年は歩いた。
1867年3月、『ランセット』に5本の論文。「骨折、膿瘍などの新しい治療法について、化膿の条件に関する所見を伴って」。開放骨折の死亡率が、1864〜66年の45.7%から、1867〜70年の15%へ。
方法は、だんだん徹底した。手を洗う。器具を石炭酸に浸す。糸(絹から、石炭酸を染み込ませた腸線=カットグートへ。体の中で溶ける)。そして「石炭酸の噴霧器」——手術室の空気に、霧のように石炭酸を撒く。医師も患者も咳き込み、手が荒れた。リスターは1890年、噴霧をやめた(「空気中の細菌はそれほど問題でない」と認めた。「私は、噴霧器を使ったことを恥じている」)。
抵抗。イギリスの外科医は嘲った。「見えない生き物が病気を起こす、というのか」。ドイツ(フォルクマン、ビルロート)とアメリカが先に受け入れた。1871年、ヴィクトリア女王の脇の膿瘍を、石炭酸の噴霧の下で切開した(「私は女王にナイフを入れた唯一の男だ」)。1877年、ロンドンのキングズ・カレッジへ移り、膝蓋骨の骨折を、皮膚を切り開いて銀線で縫うという(消毒なしでは考えられない)手術をして、見せた。
その後。「消毒(アンチセプシス。細菌を殺す)」から「無菌(アセプシス。初めから細菌を入れない)」へ。1886年、蒸気滅菌(ベルクマン)。1889年、ゴム手袋(ハルステッド。看護師の手が石炭酸で荒れるのを見て、グッドイヤー社に作らせた。その看護師と結婚した)。1897年、マスク。
リスターは1912年に死んだ。ウェストミンスター寺院での葬儀のあと、遺言でハムステッドの墓地へ。リステリン(1879年、アメリカで彼の名を借りて作られた消毒液。後に口臭の薬として売られた)と、リステリア菌に、名前が残っている。