貞観地震
概要
陸奥で大地震。「海が吼えて、大津波が城下を襲い、千人が溺れた」と『三代実録』。多賀城の下まで海が来た。1990年代から津波の砂の層が調べられ、2011年の前に「1000年に一度の津波」が警告されていた。同じ場所に、同じ高さで来た。
場所
38.31°N 140.99°E · 宮城県多賀城市
本文
869年(貞観11年)5月26日の夜、陸奥の国を大地震が襲った。朝廷が編んだ歴史書『日本三代実録』は、その様子を詳しく書き留めている。空に光が走って昼のように明るくなり、人々は叫び、倒れて起き上がれなかった。家は倒れて人を押しつぶし、地は裂けて人を埋めた。牛や馬は驚いて走り回った。城や倉、門や櫓や塀は数え切れないほど崩れた。やがて海が雷のような音を立てて吼え、大波が川をさかのぼって押し寄せ、たちまち城の下に達した。海から遠く離れたところまで、見渡すかぎり水に覆われ、野も道もすべて海になった。船に乗る暇も、山に登る間もなく、溺れ死んだ者は千人ほど。財産も田畑の稲も、ほとんど何も残らなかった、という。
ここに出てくる城は、陸奥の国府が置かれた多賀城と考えられている。いまの宮城県多賀城市にあり、朝廷が東北を治める拠点だった。多賀城は海岸から数キロ内陸にある。その城の下まで、波が来たのである。マグニチュードは8を超える規模だったと推定されている。

多賀城は、城の跡に残る石碑によれば724年に築かれ、780年に蝦夷の豪族伊治呰麻呂の反乱で焼かれたのちに建て直された。発掘では、9世紀の後半に建物が大きく建て替えられた跡が見つかっており、貞観地震で壊れた城を立て直したものと考えられている。『日本三代実録』は、『日本書紀』(『日本書紀』の完成)から続く朝廷の六つの正史の最後のもので、887年までの出来事を記している。地震の記録が正史に詳しく残ったことが、のちの研究の出発点になった。
都の清和天皇は、使者を陸奥へ送って被害を調べさせ、死者を葬り、生き残った人々を救い、税を免じるよう命じた。土地の民か蝦夷かを問わず手厚く救え、という詔の言葉も記録に残る。貞観の年代は災害の続いた時代で、864年には富士山が大きく噴火して、流れ出た溶岩の上にのちの青木ヶ原の樹海ができ、869年には肥後でも地震と大風の被害があった。京都で疫病や災いを鎮めるために行われた御霊会が、のちの祇園祭のもとになったという言い伝えも、869年を始まりとしている(京都の町衆と祇園祭)。
それから1000年あまり、貞観地震は古い記録の中の一つの災害にすぎなかった。変化が起きたのは、20世紀の終わりである。地層の中には、津波が陸の上に運んだ海の砂が、泥の層にはさまれて残ることがある。1990年ごろ、東北大学の箕浦幸治らは、仙台平野の地層に、貞観地震のときのものと見られる津波の砂の層を見つけた。電力会社も原子力発電所の安全の検討のために、この地震の記録と地層を調べていた。
2000年代に入ると、産業技術総合研究所などの研究者たちが、宮城県から福島県の沿岸で地層を掘り進めた。貞観の津波の砂は、当時の海岸線から3〜4キロ内陸まで達していた。さらに古い時代にも同じような津波の砂の層があり、こうした巨大な津波が数百年から千年ほどの間隔で繰り返してきたことが分かってきた。研究者たちは、いつまた同じ規模の地震が起きてもおかしくない、と警告を発し始めた。
国の地震調査研究推進本部は、この成果を受けて、宮城県沖から福島県沖の地震の長い目で見た評価を改めることを準備した。貞観地震のような巨大な地震と津波への備えを求める内容で、2011年の春に公表される予定だった。その直前の3月11日、東日本大震災と福島第一原発事故が起きる。
2011年の津波は、貞観の津波が運んだ砂の層とほぼ同じ範囲を水に沈めた。多賀城の跡の近くまで、ふたたび波が来た。歴史書の記録と地層の砂は、千年前に同じことが起きていたことを、はっきりと語っていた。それを読み解いた人々がいて、警告もされていた。だが、防潮堤や原子力発電所の備えを変えるには間に合わなかった。
この経験から、古い記録と地層を手がかりに過去の災害を調べ、まれにしか来ない最大級の地震と津波を想定に入れることが、日本の防災の考え方の柱になった。貞観地震は、「想定外」という言葉の意味を問い直させた地震として記憶されている。