ロバート・ベイクウェル
概要
レスターシャーのディシュリーの借地農。ヨーロッパ各地を回って農法を見て、家業を継いだ。雌雄を分けて飼い、記録を取り、目的の形質を持つ個体だけを交配した。ニュー・レスター種の羊、ロングホーン種の牛、そしてシャイヤ馬の改良。優れた種雄を売らずに貸す商法を作り、一季節で当時としては破格の料金を取った。牧草地の灌漑と、家畜の穏やかな扱いも重視した。生涯独身で、農場は繁盛したが晩年は借金を抱えた。
関わったできごと(1)
ベイクウェルの品種改良AD1760年頃 · 育てた本文
ロバート・ベイクウェルは1725年5月23日、イングランド中部レスターシャーのディシュリーに生まれた。父も同じ名のロバートで、そこの借地農だった。土地は自分のものではなく、地主から借りて耕す。当時のイングランドの農業では、ごくふつうの形である。
若いころ、彼はイングランドのほかの州や、オランダ、アイルランドを旅して回った。よその土地で家畜をどう飼い、畑をどう耕しているかを見るためである。18世紀のイングランドでは、農業を改良しようという熱が高まっていた。種まき機を考えたジェスロ・タル、カブを取り入れた輪作を広めたタウンゼンド子爵、農業の見聞を書き続けたアーサー・ヤング。共同の放牧地や開けた畑を垣根で囲って一人の持ち主の土地にする囲い込みも進んでいた。1760年、父が死に、35歳の彼は農場を継いだ。

それまで家畜は、村の共同の放牧地で雌雄が混ざって草をはみ、子は成り行きで生まれていた。ベイクウェルはまず雌と雄を分けて飼い、どの雄にどの雌をつけるかを人が決めることにした。そして目標を一つに絞った。早く太る羊である。羊毛の質でも、丈夫さでも、子を多く産むことでもない。産業革命が始まり、町の人口は急に増えていた。安い肉が大量に要る。市場がそれを求めていた。
目当ての性質を持つ個体が見つかると、彼は親子や兄妹のあいだでもかけ合わせた。当時、そうした近親の交配は道徳に反すると非難されたが、彼はこれを系統立てて使い、望む性質を一つの血筋に固めていった。個体ごとの血統と育ち方を記録し、つぶした羊の骨格を取っておいた。農場には標本の部屋があり、骨や、アルコールに漬けた体の一部が並んでいた。よい羊の骨がどういう形をしているかを、目で確かめるためである(ベイクウェルの品種改良)。
商売のやり方も新しかった。優れた雄を売ってしまえば、買った者がそれを殖やし、彼の強みは消える。だから売らずに、一季節だけ貸した。雄羊の貸し賃は、1760年には一季節17シリング6ペンスだったが、1780年代には数十ギニーに上がり、1789年には1頭が一季節で400ギニーを稼いだ。腕のいい職人の年の稼ぎの何倍にもあたる額である。1783年には、彼の羊を借りる農家の組合「ディシュリー協会」を作り、会員の外へは貸さないことにして値を保った。事実上の価格の取り決めだが、血筋の質を守る役目も果たした。
こうしてできたのが、ニュー・レスター種の羊である。胴が太く、脚が短く、樽に脚をつけたようだと評された。骨が細く、肉と脂の割合が高く、2年で市場に出せた。ただし批判もあった。近親の交配のせいか子の数が少なく、脂が多すぎ、羊毛の質は落ちた。もっとも、重い肉体労働をする当時の人々にとって、脂の多い肉は安く力をつける食べ物でもあった。19世紀の後半に人々の好みが脂の少ない肉へ移ると、この品種は不利になった。なお、18世紀のあいだにロンドンの家畜市場で売られる牛や羊の重さが倍になった、という数字がよく引かれるが、この数字の根拠は弱く、誇張だと指摘されている。改良の効果は確かにあったが、その大きさを数字で言うのは難しい。それでも、ほかの品種を改良するための種として広く使われ、いまのイギリスやオーストラリア、ニュージーランドの多くの羊に、その血が入っている。
牛ではロングホーン種を、荷を引く役から肉をとる牛へと変えようとした。こちらはのちに、ほかの育種家たちが作ったショートホーン種に押された。馬では、運河の船や荷車を引く重い馬の系統を改良し、のちのシャイヤ種の土台の一つになった。
彼は牧草地に水路を引き、冬に水を張ることで、春の草の芽吹きを早めた。水門と溝は自分で設計した。家畜と農産物を市場へ運ぶため、運河の建設を支持し、出資もした。
家畜の扱いでも彼は変わっていた。家畜を叩くことを禁じたのである。訪ねた人の記録には、巨大な雄牛が子どもに綱一本で引かれていた様子が書かれている。棒で追うのが当たり前だった時代に、彼は穏やかに扱うほうが家畜はよく育つと考えた。
ディシュリーの農場はヨーロッパ中に知られ、地主や農学者、外国からの視察者がひっきりなしに訪れた。1770年代にアーサー・ヤングが訪ねて詳しく書いたことが、彼の名を広めた。彼は客をほとんど無料でもてなし、家にはいつも誰かが泊まっていた。見せることが最良の宣伝だと考えていたようでもあり、単に人と話すのが好きだったようでもある。
そのぶん出ていく金も多かった。会員への貸し賃を抑え、客をもてなし、改良に金をつぎ込んだ。晩年の彼は借金を抱えていた。生涯独身で、1795年10月1日、ディシュリーで死んだ。70歳だった。地元の教会に葬られた。
64年後の1859年、チャールズ・ダーウィンは『種の起源』を、自然選択の話からではなく、人が家畜や作物を選んで変えてきた話から始めた。人の手で形が変わることを、読者にまず実例で納得させるためである。そこではベイクウェルの名も挙げられている。育種家は、求める形を心に描き、それに向けて選び続ける。人が数十年でこれだけ変えられるなら、自然が途方もない時間をかければどれほど変えられるか。

ベイクウェルは遺伝の仕組みを知らなかった。メンデルのエンドウの論文が書かれるのは、彼の死から70年後である。彼がしたのは、目的を決め、記録をとり、選び続けることだけだった。その方法が、いまの家畜と作物の育て方の土台になり、ダーウィンを通じて、生き物がどう変わるかを考える枠組みの一部になった。