できごと

線文字Bの解読

The decipherment of Linear B
AD1952年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1952年の版図を描いています(38勢力)。

概要

クレタ島クノッソスで見つかった粘土板の文字。50年、誰も読めなかった。建築家マイケル・ヴェントリスは14歳でエヴァンズの講演を聞いて取り憑かれ、余暇に取り組んだ。記号の出現位置を統計的に整理し、格子状の表に並べ、音節の対応を推測した。そして自分の予想に反する結論に達した。この言語はギリシア語である。ミケーネ文明がギリシア語を話していたことが、これで確定した。粘土板の中身は、羊の頭数と油の配給の記録だった。彼は4年後、34歳で交通事故で死んだ。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

マイケル・ヴェントリスAD1922年7月12日–AD1956年9月6日 · 解いた

本文

1900年、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズがクレタ島のクノッソスで発掘を始めた。土の下から巨大な宮殿が現れた(クノッソスの宮殿)。エヴァンズはこれを伝説のミノス王の宮殿と考え、この島の青銅器時代の文明を「ミノア文明」と名づけた。

宮殿からは粘土板が大量に出た。粘土板はふつう日干しで、そのままなら崩れてしまう。ところが宮殿が火災で焼けたとき、火にあぶられて偶然に焼き固められ、三千年以上を生き延びた。そこに刻まれた文字は三種類あった。絵のような記号の聖刻文字、線で書かれた線文字A、そしてもう一つの線文字Bである。いちばん多いのが線文字Bだった。

ピュロス出土の線文字B粘土板
ピュロス出土の線文字B粘土板Wikimedia Commons Sharon Mollerus · CC BY 2.0

エヴァンズは線文字Bの粘土板を数千枚手元に置いたが、自分で解読するつもりで、生きているあいだにはごく一部しか公刊しなかった。ほかの研究者は材料をろくに見られなかった。1941年、エヴァンズは90歳で死んだ。文字は読めないままだった。

分かっていたことは少ない。記号は約90種類ある。アルファベットにしては多すぎ、漢字のような表語文字にしては少なすぎる。だから一つの記号が一つの音節を表す音節文字らしい。数字と、それに続く物の絵(羊、麦、壺、車輪)が並んでいるので、帳簿らしい。しかし何語で書かれているのかは、まったく分からなかった。

アーサー・エヴァンズによって発見された、線文字Bが刻まれた粘土板
アーサー・エヴァンズによって発見された、線文字Bが刻まれた粘土板Wikimedia Commons vintagedept · CC BY 2.0

そこに一つの思い込みがあった。エヴァンズは、ミノア文明はギリシア人がやって来る前の、ギリシア語とは無関係な人々の文明だと確信していた。クレタが先にあり、ギリシア本土のミュケナイの興りはその影響下にあった、という図式である。この図式からすれば、クレタの文字がギリシア語であるはずがない。分野はこの見方に従い、候補にはエトルリア語や、ヒッタイト語のような小アジアの言葉、未知の「エーゲ語」が挙げられていた。

この謎を解いたのは、本職の言語学者ではなかった。マイケル・ヴェントリスは1922年に生まれた。父は陸軍の軍人で、母はポーランド系の家の出だった。言葉の才能は早くから目立ち、子どものころにスイスの学校でフランス語とドイツ語に囲まれて育ち、ポーランド語も身につけた。1936年、14歳の彼は学校の見学でロンドンのバーリントン・ハウスを訪れ、85歳のエヴァンズがクレタの発掘について話すのを聞いた。少年が「まだ読めないのですか」と尋ねた、と伝えられている。彼はこの問題から生涯離れなかった。

マイケル・ヴェントリスの肖像
マイケル・ヴェントリスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

18歳のとき、彼は線文字Bの言語はエトルリア語だろうという論文を書き、アメリカの考古学の学術誌に載った。編集者は書き手がまだ十代だとは知らなかったと言われる。その後は建築を学んで建築家になり、第二次世界大戦では空軍の航法士として爆撃機に乗った。戦後は学校建築の設計に携わった。解読は、夜と週末の仕事だった。

彼の方法は、言葉の知識に頼るものではなかった。まず、どの記号が語の初めに多く、どの記号が語の終わりに多いかを数え上げた。次に、同じ語の頭に違う語尾が付く組を探した。語尾が変わるなら、それは名詞や動詞の形が変わる屈折語だということになる。そのうえで、記号を格子の表に並べた。音節文字なら、一つの記号は「子音と母音」の組を表す。同じ子音を持つ記号を同じ列に、同じ母音を持つ記号を同じ行に置く。どの子音でどの母音かは分からなくても、「この二つの記号は母音が同じらしい」という関係なら、語尾の変わり方から推し量れる。彼はこの表を何度も作り直し、考えの経過を「作業ノート」として刷って、関心を持つ研究者たちに送り続けた。

彼の前には、もう一人の研究者がいた。アメリカのブルックリン・カレッジで古典語を教えていたアリス・コーバーである。彼女は粘土板の語を一つずつカードに書き写して整理し、同じ語の語尾が三通りに変わる組を見つけていた。紙が手に入りにくい時代で、たばこの箱を切ってカードにしたとも伝えられる。コーバーは文字が屈折する言語を書いていることを示したが、1950年に43歳で病死した。ヴェントリスの格子は、彼女の仕事の上に組み立てられている。

決め手は地名だった。クレタの地名は、住む人の言葉が変わっても古い形が残りやすい。ヴェントリスは格子から得た音の見当を、何度も出てくる語に試しに当てはめた。すると、クノッソスが「コ・ノ・ソ」、アムニソスが「ア・ミ・ニ・ソ」、トゥリソスが「トゥ・リ・ソ」と読めた。その音で別の語を読むと、「ポ・メ」は羊飼い、「ケ・ラ・メ・ウ」は陶工、「カ・ケ・ウ」は銅細工の職人を表すギリシア語に重なった。

それはギリシア語だった。1952年の初夏、彼は長く信じてきたエトルリア語の説を捨て、線文字Bはホメロスより何世紀も古い、古い形のギリシア語だと結論した。7月1日、彼はイギリスの公共放送のラジオ番組でこの見通しを語った。

放送を聞いた一人に、ケンブリッジの言語学者ジョン・チャドウィックがいた。古いギリシア語の方言にくわしく、戦時中には暗号を扱う仕事もしていた。彼はヴェントリスに手紙を書き、二人の共同研究が始まった。1953年、二人はミケーネの文書にギリシア語の方言が現れていることを示す論文を発表した。

同じ1953年、確かめる機会が来た。アメリカの考古学者カール・ブレーゲンは、ギリシア本土のピュロスの宮殿跡から新しく粘土板を掘り出していた。ヴェントリスの音の表で読んでみると、三本脚の鼎の絵の横に「ティ・リ・ポ・デ」(鼎二つ)、取っ手の付いた壺の絵の横に耳の数を表す語が書かれていた。絵と文字が合っていた。解読の前に誰も見ていなかった粘土板で一致したことで、偶然ではないと多くの研究者が認めた。

すべての学者がすぐに納得したわけではない。音の当て方に融通がききすぎる、どんな言葉にでも読めてしまうのではないか、という批判は数年にわたって続き、イギリスの古典学者の中には強く反対する人もいた。しかし新しい粘土板が出るたびに読みが通り、反対の声はしだいに小さくなった。粘土板からは社会の仕組みも見えてきた。頂点には「ワナカ」と呼ばれる王がいて、その下に軍の長らしい役職や地方の役人が並び、宮殿が土地や家畜や職人の仕事を細かく割り振っていた。

解読がもたらしたものは大きい。ミケーネ文明の人々はギリシア語を話していた。ギリシア語で書かれた記録は、『イリアス』『オデュッセイア』の成立より数百年さかのぼることになった。エヴァンズの図式も逆になった。クノッソスからも線文字Bの粘土板が出る以上、ある時期のクレタの宮殿は、本土から来たギリシア語を話す人々の手で動いていたことになる。

一方で、粘土板の中身は人々を少しがっかりさせた。詩も、王の事績も、法も書かれていなかった。あったのは帳簿である。羊の頭数(クノッソスの記録を合わせると羊は10万頭近くになるとされる)、油や穀物や香料の配給、職人の名簿、戦車の車輪の在庫、女性と子どもの働き手の名簿。神々への供え物の記録には、ゼウス、ヘラ、ポセイドンのほか、後の時代の神と考えられていたディオニュソスの名らしい語も見える。日付も、年をまたいだ記録もない。粘土板は本来、その年の帳簿を書いては捨てる使い捨ての記録だったらしい。宮殿が焼けた年のものだけが、焼き固められて残った。

線文字Aは、いまも読めない。線文字Bと形の似た記号には同じ音を当てて読むことはできるが、それで知られた言葉にはならない。ミノア人の言葉は、正体の分からないままである。

ヴェントリスはチャドウィックと共著で、粘土板の読みと解説をまとめた大部の本を書き上げた。1956年9月6日の深夜、彼はロンドンの北の幹線道路で、止まっていたトラックに車ごと突っ込み、即死した。34歳だった。本は彼の死の直後に出版された。夜の直線道路で起きた事故だったことから、自殺ではなかったかと語られることもあるが、それを裏づける証拠はない。

彼の方法は、言葉の知識よりも、記号の並びの規則性を数えることから始まった。自分の仮説が外れたと分かったとき、それを捨てることもためらわなかった。チャドウィックは1958年に解読の経緯を一般向けの本にまとめ、ヴェントリスのそうした姿勢を、学者として得がたい美点として書き残している。この本によって、建築家が余暇に古代の文字を解いた話は広く知られるようになった。

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