ジョン・ネイピア
概要
エディンバラ近郊マーチストンの領主。神学の論争家として当時は知られ、『ヨハネ黙示録の明白な発見』で教皇を反キリストと論じた。農業の改良、そして戦争の機械(鏡で敵艦を焼く装置、装甲車)の構想も残した。20年かけて対数の表を作り、1614年に発表した。掛け算と割り算を足し算と引き算に変える。計算のための棒(ネイピアの骨)も考案した。魔術師と噂され、黒い雄鶏を連れ歩いたと伝わる。
関わったできごと(1)
ネイピアの対数AD1614年 · 作った本文
ジョン・ネイピアは1550年、スコットランドのエディンバラ近郊、マーチストン城に生まれた。父アーチボルドは王国の造幣局長を務めた地主で、結婚したときまだ10代半ばだったとされる。母ジャネットは貴族の家の出である。13歳でセント・アンドルーズ大学に入ったが、長くはとどまらず、卒業していない。その後は大陸で学んだと考えられているが、記録は残っていない。

彼の本業は、マーチストンの領主として土地を治めることだった。農業の改良に熱心で、肥料として塩を使う方法を試して特許を得、炭鉱の水を汲み出すための装置も考えた。
1590年代、スペインがふたたびブリテン島へ攻めてくるのではないかという不安が広がっていた(アルマダの海戦)。ネイピアは1596年、「秘密の発明」の覚え書きをまとめた。鏡で日光を集めて遠くの敵の船を焼く装置、水の下を進む船、金属で覆われ四方に弾を撃ちながら進む車、遠くの敵をなぎ払う砲。どれも実際に作られた記録はない。

同時代の人々がネイピアの名を知っていたのは、数学ではなく神学によってだった。1593年に出した『ヨハネの黙示録の明白な発見』は、黙示録を一節ずつ読み解いて、ローマ教皇こそ反キリストだと論じ、世界の終わりを17世紀の終わりごろと計算した。当時のスコットランドの学術書としては珍しく英語で書かれ、オランダ語、フランス語、ドイツ語に訳されて版を重ねた。本人はこれを生涯の主著だと考えていたようである。黙示録の数字を周期の計算で解こうとするその手つきは、彼の数学と地続きだった。
城で彼は、黒い雄鶏を飼っていたと伝えられる。使用人の中に盗みを働いた者がいたとき、彼は全員を一人ずつ暗い部屋に入らせ、雄鶏の背をなでさせた。犯人がなでたときにだけ鶏が鳴く、と言い聞かせて。実は雄鶏の背には煤が塗ってあり、やましくない者は平気でなでて手が黒くなる。手がきれいなまま出てきた者が犯人だった、という話である。こうした逸話が重なって、彼は「マーチストンの魔術師」と呼ばれた。

彼が20年をかけたのは、計算の手間を減らす方法だった。天文学や航海では、三角関数の表を引きながら、何桁もの数の掛け算と割り算を延々と繰り返す。一つの誤りがすべてを狂わせ、計算そのものに何か月もかかった。ネイピアが考えたのは、数を別の数に置き換えて、掛け算を足し算に、割り算を引き算に変える仕組みである。等比数列と等差数列を対応させるという着想を、彼は連続して動く二つの点の運動として組み立て、何年もかけて表を計算した。
1614年、ラテン語で『驚くべき対数の規則の記述』を出した(ネイピアの対数)。中身は表と、その使い方の説明で、どうやって表を作ったかは書かなかった。まず世に受け入れられるかを見たかったのである。作り方は死後の1619年、息子が『構成』として出版した。

本を読んで驚いた一人が、ロンドンの数学者ヘンリー・ブリッグズだった。彼は1615年の夏、はるばるエディンバラまでネイピアを訪ねた。伝わる話では、二人は対面すると、しばらく言葉もなく見つめ合った。ブリッグズはやがて、どんな知恵でこれほど便利なものを思いついたのか、なぜこれまで誰も思いつかなかったのか、と尋ねたという。二人は話し合い、10を基準にした表のほうが使いやすいことで意見が一致した。この常用対数の表を完成させたのはブリッグズである。
ネイピアは最晩年の1617年、もう一つの計算の道具を本にまとめた。数を刻んだ棒を並べ替えて掛け算と割り算を楽にするもので、象牙や骨で作られたことから「ネイピアの骨」と呼ばれた。対数より分かりやすく、ヨーロッパ中で作られて広く使われた。

1617年4月4日、ネイピアはマーチストン城で死んだ。痛風に苦しんでいたとされる。67歳前後だった。
対数はたちまちヨーロッパに広がった。ヨハネス・ケプラーはネイピアの表に熱中し、惑星の位置を計算する『ルドルフ表』(1627年)を対数を使って仕上げた。数年後にはイギリスで、対数の目盛りを刻んだ物差しをずらして計算する道具が生まれ、これが20世紀まで技術者の必需品だった計算尺になる。自然対数の底であるe(2.718…)は、ネイピアの対数の考え方の中に隠れているが、彼自身がこの数を取り出して示したわけではない。
天文学者ラプラスは、対数は計算の労力を減らすことで天文学者の寿命を倍にした、と評したと伝えられる。エディンバラのネイピア大学は彼の名を冠し、生家のマーチストン城の塔は、いまも大学の敷地の中に建っている。