できごと

ビーグル号の航海

Voyage of the Beagle
AD1831年12月27日
重要度 4
ビーグル号の航海に関わる図版:The Voyage of the Beagle
The Voyage of the Beagle Wikimedia Commons Charles Darwin · Public domain

概要

22歳の博物学者が5年、世界を回った。集めた化石と、島ごとに違う鳥の嘴が、帰ってから20年かけて一つの考えになる。

場所

プリマス
50.38°N -4.14°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

チャールズ・ダーウィンAD1809年2月12日–AD1882年4月19日 · 同乗した博物学者

本文

ビーグル号は、イギリス海軍の10門の小さな帆船で、測量船に改装されていた。2度目の航海の任務は、南アメリカの南部の海岸を測り直して海図を作ること、そして世界を一周しながら、時計を使った経度の観測をつないでいくことだった。艦長のロバート・フィッツロイは26歳。貴族の家の出で、前の航海の途中、前任の艦長が南米の南端の荒れた海で心を病み、自殺したため、指揮を引き継いだ人だった。

フィッツロイは、何年も続く航海の孤独を恐れていた。艦長は乗組員と親しく交わることができない。叔父にあたる政治家も自殺していて、自分にもその気質があると心配していたとされる。そこで、食卓を共にして話し相手になれる紳士の博物学者を、費用は本人持ちで連れて行きたいと考えた。ケンブリッジの植物学の教授ヘンズローに話が回り、ヘンズローは教え子の22歳のチャールズ・ダーウィンを推した。

フエゴ人に迎えられるビーグル号
フエゴ人に迎えられるビーグル号Wikimedia Commons Conrad Martens (1801 - 21 August 1878) · Public domain

ダーウィンは、医学を学びにエディンバラへ行って続かず、牧師になるためにケンブリッジを出たばかりだった。甲虫集めに熱中し、ヘンズローと野外を歩き回っていた。父ロバートは、無駄な冒険だと反対した。叔父のジョサイア・ウェッジウッド2世が手紙で父を説得し、ようやく許しが出た。人相学を信じていたフィッツロイは、ダーウィンの鼻の形を見て、気力が足りないのではないかと疑った、とダーウィンは後年の自伝で笑っている。

船は1831年12月27日、プリマスを出た。全長30m足らずの船に、70人以上が乗っていた。予定は2年だったが、戻ったのは5年後の1836年になる。ダーウィンはひどい船酔いに苦しみ、最後まで慣れなかった。航海の5年のうち、3年あまりを陸の上で過ごしている。船が海岸を測るあいだ、馬で内陸を何週間も旅し、化石、岩、鳥、昆虫、植物を集めて、イギリスのヘンズローのもとへ送り続けた。

ビーグル号、マゼラン海峡のモンテ・サルミエント付近(ロバート・テイラー・プリチェット画の口絵、1890年版)
ビーグル号、マゼラン海峡のモンテ・サルミエント付近(ロバート・テイラー・プリチェット画の口絵、1890年版)Wikimedia Commons R. T. Pritchett · Public domain

船には、前の航海でフィッツロイがイギリスへ連れ帰った、南米の南端ティエラ・デル・フエゴの先住民3人も乗っていた。英語と作法とキリスト教を身につけさせて故郷に戻し、宣教の足がかりにするという計画だった。1833年に故郷へ戻された彼らは、1年後に船が立ち寄ったとき、もとの暮らしに戻っていた。

パタゴニアの崖では、巨大な地上性のナマケモノや、サイほどの大きさの哺乳類の骨を掘り出した。絶滅したそれらの動物は、いまその土地に住むナマケモノやアルマジロに、どこか似ていた。なぜ同じ土地に、似た形の大きなものが昔いて、小さなものがいま残っているのか。この問いは、帰国後に大きな意味を持つ。

1878年のダーウィン。名声が高まる一方、長年病に苦しんでいた
チャールズ・ダーウィンWikimedia Commons Leonard Darwin · Public domain

船には、フィッツロイが贈ったライエルの『地質学原理』の第1巻が積まれていた。地表は大洪水のような天変地異ではなく、いまも働いている小さな力が長い時間積み重なって作られた、と説く本になる。第2巻は航海中に南米で受け取った。1835年2月、チリでダーウィンは大地震に遭い、海岸の土地が数フィート持ち上がって、貝のついた岩が海面の上に出ているのを見た。アンデスの高い山の上では、海の貝の化石を見つけた。小さな隆起が繰り返されれば、山ができる。ライエルの言うとおりだった。

1835年9月、船はガラパゴス諸島に着き、5週間ほどとどまった。ダーウィンは島の役人から、ゾウガメの甲羅の形を見ればどの島の亀か分かる、と聞かされた。マネシツグミが島ごとに違うことにも気づき、航海中のノートに、もしこれが本当なら種の安定は揺らぐだろう、と書いている。ただし、いまダーウィンフィンチと呼ばれる小鳥が島ごとに違う種だと分かったのは、帰国後、鳥類学者ジョン・グールドが標本を調べてからになる。ダーウィンはフィンチを島ごとに分けて記録していなかったので、フィッツロイらの標本で補わなければならなかった。

船はその後、タヒチ、ニュージーランド、オーストラリア、喜望峰を回り、1836年10月2日、イギリスのファルマスに戻った。数日後、シュルーズベリの実家に帰ったダーウィンを見て、父は、息子の頭の形まで変わった、と言ったと伝えられる。

帰国して1年もたたない1837年の夏、ダーウィンは種が変わっていくことについてのノートをつけはじめた。1838年にトマス・マルサスの『人口論』を読み、生き残りをかけた競争が変化を選び取っていくという考えにたどり着く。航海の記録は1839年に出版され、旅行記としてよく読まれた。それから20年、慎重に証拠を積み上げて、1859年に『種の起源』を出す。

『種の起源』に関わる図版:Origin of Species title page
『種の起源』Wikimedia Commons John Murray, Publisher · Public domain

フィッツロイはのちに気象の役所を作り、天気予報を始めた(最初の天気予報)。信仰の篤い彼は、自分の船に乗せた博物学者の説に深く苦しみ、1860年のオックスフォードでの論争の場では、聖書を掲げて反対を訴えたと伝えられる。1865年、彼もまた自ら命を絶った。

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