できごと

算木

Counting rods
BC300年頃
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝セレウコス朝周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国シンハラBC300年頃長安
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC300年頃の版図を描いています(11勢力)。

概要

竹や木の小さな棒を、机や布の上に並べて計算する。縦横で位を交互に表し、空いた桁は場所を空ける。位取りの十進法が、記号ではなく物の配置として先に成立していた。赤い棒を正の数、黒い棒を負の数に使い分ける。負の数を実際の計算に用いた、世界で最も早い例である。連立方程式は係数を格子状に並べて解いた。行列の消去法と同じ手続きが、そこにある。宋代に算盤へ、そして数字の記法へ引き継がれた。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

本文

算木は、竹や木、骨などで作った小さな棒である。中国では算籌と呼ばれた。机の上や布の上にこれを並べ、並べ替えながら計算する。戦国時代から漢代にかけての墓から実物が見つかっており、『漢書』律暦志には、太さ一分、長さ六寸(十四センチほど)の竹の棒を二百七十一本束ねて六角形の一握りにする、という規定が書かれている。役人や商人はこれを袋や筒に入れて腰に下げ、持ち歩いた。のちには長さが短くなっていく。

並べ方には決まりがあった。一から五までは棒の本数で表し、六から九までは、五を表す一本を横に渡して、残りの本数を足す。そして桁ごとに、縦に並べる形と横に並べる形を交互に使った。5世紀ごろの算術書『孫子算経』は、一の位は縦、十の位は横、百の位は立て、千の位は寝かせる、と教えている。隣り合う桁が同じ向きだと、棒の束がくっついてどこで区切れるか分からなくなる。向きを交互にすれば、一目で桁の境が見える。

朱世傑の四元玉鑑 (1303年) で書かれた楊輝の三角形
朱世傑の四元玉鑑 (1303年) で書かれた楊輝の三角形Wikimedia Commons Yáng Huī (楊輝), ca. 1238–1298) · Public domain

数のない桁は、その場所を空けておく。ここに、算木の大きな意味がある。ゼロという記号はないが、「そこには何もない」という場所がある。位取りの十進法が、文字や記号として書かれるより先に、物の置き方として成り立っていたのである。並べているときは空けておけば足りるが、紙に書き写すときには困る。そこで空いた桁に丸を書く習慣が生まれ、13世紀の数学書に「○」が現れる。インドで生まれた記号としてのゼロ(ブラーマグプタのゼロ)とは別の道筋をたどりながら、同じ位取りの原理に行き着いたことになる。

算木のもう一つの特徴は、負の数である。赤い棒を正の数、黒い棒を負の数に使い分けた。棒を斜めに置いて負を表すやり方もあった。紀元1世紀ごろにまとめられた九章算術には、正負術という名で、正と負の数の足し算と引き算の規則がはっきり言葉で書かれている。同じ符号どうしなら足し、違う符号なら引く。3世紀にこの本に注を付けた劉徽は、正の数を赤、負の数を黒で表すと説明している。負の数をこれほど早く計算に組み込んだ例は、ほかにない。インドでは7世紀のブラーマグプタが、財産と借金にたとえて負の数の規則を述べた。一方ヨーロッパでは、16世紀のカルダーノがなお負の数を「架空の数」と呼んでおり、正面から受け入れられるのは17世紀以降である。

ベトナムの数学教科書に見える算木
ベトナムの数学教科書に見える算木Wikimedia Commons Phạm Phúc Cẩn 范福菫 · Public domain

なぜ中国で早かったのか。中国の数学が、帳簿や税、土地の測量といった実務から生まれたことが理由の一つに挙げられる。貸しと借り、多いと少ないという対は、日々の仕事の中で当たり前の意味を持っていた。

負の数が必要になったのは、方程式を解くためでもあった。『九章算術』の第八章「方程」では、いくつかの未知数を含む連立の一次方程式を、係数を格子の形に並べて解く。ある列に数を掛けて別の列から引き、係数を一つずつ消していく。この手順は、現代の線形代数でガウスの消去法と呼ばれるものと実質的に同じである。消していく途中で、どうしても負の数が出てくる。だから負の数の規則が要った。算木を並べる布や板は、いわば行列を並べて掃き出すための作業台だった。

『永楽大典』に見える算木の位取り。71,824を表す
『永楽大典』に見える算木の位取り。71,824を表すWikimedia Commons Yang Hui (13th century) · Public domain

宋代から元代にかけて、算木の上の計算はさらに高い段階へ進んだ。13世紀には李冶らが、未知数を一つ置いて高い次数の方程式を立てる天元術を整え、14世紀初めの朱世傑は、未知数を四つまで扱う四元術を示した。どちらも、算木を盤の上に並べることを前提にした方法である。

しかし算木には限界もあった。大きな数や込み入った計算では机一面に棒が広がり、並べ替えに時間がかかる。崩せば途中の経過が消えてしまう。宋代から算盤(そろばん)が少しずつ広まると、日々の商いの計算、とくに掛け算と割り算では、算盤のほうがずっと速かった。明代には算木はほとんど使われなくなり、それとともに、算木の上でしかできなかった天元術や四元術も忘れられた。明の学者たちには、元代の本がもう読めなくなっていたという。それらが古典として掘り起こされるのは、清代になってからである。

18世紀の日本の数学書にある算盤(チェッカー式計算盤)の図
18世紀の日本の数学書にある算盤(チェッカー式計算盤)の図Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

算木の数学は、別の土地で生き延びた。朱世傑の入門書は朝鮮で読み継がれ、そこから日本へ渡った。江戸時代の日本では、算木を盤に並べて天元術を学ぶことが広く行われ、17世紀後半の関孝和は、算木で表していた式を紙の上の記号で書く方法を考えて、未知数をいくつも含む式を扱えるようにした(関孝和と和算)。和算は、中国で一度途絶えた算木の数学を土台にして花開いたのである。

いま算木を使う人はほとんどいない。それでも、空いた場所を「何もない」という数として扱う位取りの考え方は、算木の上で早くから確かめられていた。漢数字の一、二、三の形が、横に置いた算木によく似ているのも偶然ではないとする見方がある。机の上に置かれた小さな棒の並びが、数を記号として書く前の、もう一つの数字だった。

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