人物

ノーマン・ボーローグ

Norman Borlaug
AD1914年3月25日 – AD2009年9月12日(享年95)
アメリカ合衆国重要度 4

概要

メキシコで背の低い小麦を作り、インドとパキスタンの飢饉を止めた。10億人を救ったと言われ、ノーベル平和賞を受けた農学者。

所属

アメリカ合衆国

本文

1914年、アメリカ中西部アイオワ州の小さな町クレスコの近くで、ノルウェー系移民の農家に生まれた。祖父母の代に海を渡ってきた一家で、少年時代は家畜の世話とトウモロコシ畑の手伝いに明け暮れた。通った学校は教室が一つしかない田舎の学校だった。祖父は彼に、あとで腹を満たしたいなら、いまのうちに頭を満たしておけ、と言い聞かせたという。

高校ではレスリングに打ち込み、その腕を買われてミネソタ大学に進んだ。世界恐慌のさなかで、学費を稼ぐために食堂で働き、大学を休んで森林局の仕事をした。ミネアポリスで、飢えた人々が加わったストライキが暴動になるのを目の前で見たことが、食べものの問題に生涯をかけるきっかけになったと、のちに語っている。最初は林学を学んだが、植物の病気の研究に移り、1942年に植物病理学で博士号を取った。

世界恐慌に関わる図版:Unemployed men queued outside a depression soup kitchen opened in Chicago by Al Capone, 02-1931 - NARA - 541927
世界恐慌Wikimedia Commons Unknown author Unknown author or not provided · Public domain

化学会社デュポンで研究員として働いたあと、1944年、ロックフェラー財団とメキシコ政府の共同計画に加わってメキシコへ渡った。仕事は、メキシコの小麦を荒らしていた「さび病」に強い品種を作ることだった。メキシコは小麦を輸入に頼っていた。現地の研究施設は貧弱で、彼は自分で鍬を握り、農民たちと一緒に畑を耕すところから始めた。

彼が考え出した工夫の一つが、二か所で育てるやり方である。北西部ソノラ州の低い平地では冬に、首都近くの高地では夏に小麦を育て、収穫した種をすぐもう一方へ運んでまく。こうすると一年に二度、交配と選抜ができ、育種の速さが倍になる。財団の上司は、小麦は一つの土地に合わせて育てるものだと反対したが、彼は押し切った。予想外の副産物があった。緯度も高さも違う土地で育ったために、昼の長さに左右されない、どこでも育つ性質が身についたのである。

ノーマン・ボーローグ(2004年)
ノーマン・ボーローグ(2004年)Wikimedia Commons Ben Zinner, USAID · Public domain

次の壁は、背丈だった。病気に強く実りの多い小麦ができても、肥料をやると穂が重くなりすぎ、茎が倒れてしまう。倒れた小麦は腐り、収穫できない。解決の鍵は日本にあった。日本で育成された背の低い小麦の品種、農林10号である。戦後、占領軍の農業顧問がアメリカに持ち帰り、ワシントン州の研究者が交配に使っていた。ボーローグはその系統を取り寄せ、メキシコの品種と掛け合わせた。茎が短く太い、倒れにくい小麦ができた。肥料を吸っても倒れず、収量は数倍になった。1956年、メキシコは小麦を自給できるようになった。

1960年代、南アジアが飢饉の縁に立っていた。インドとパキスタンでは人口が急速に増え、凶作の年にはアメリカからの食料援助で何とか持ちこたえていた。1963年、ボーローグは両国を訪れ、自分の小麦を試すよう説いた。保守的な官僚たちは渋ったが、試験栽培の成果を見て、両国の政府は大量の種を輸入することを決めた。1965年、メキシコから数百トンの種を積んだ船が出た。ちょうどインドとパキスタンが戦争を始めたときで、種の荷は港での混乱にも見舞われたが、届いた。

結果は劇的だった。パキスタンは1968年に小麦の自給を果たし、インドも数年のうちに続いた。同じころ、フィリピンの国際稲研究所が背の低い多収の稲を作り、アジアの米作りにも同じ変化が起きた。品種の改良、化学肥料、灌漑を組み合わせて収穫を大きく増やしたこの変化は、緑の革命と呼ばれた。インドでは、1966年に首相になったインディラ・ガンディーの政府がこれを推し進めた。

緑の革命に関わる図版:Index-of-cereal-production-yield-and-land-use World
緑の革命Wikimedia Commons Hannah Ritchie · CC BY 4.0

1970年、ノーベル平和賞が贈られた。農学者の受賞は異例だった。知らせが届いたとき、彼はメキシコの畑で働いていて、妻が車で知らせに来ても、まだ仕事があると言ってすぐには畑を離れなかったと伝えられる。受賞講演では、飢えを放置した平和は無いと訴え、同時に、人口の増加を抑えなければ緑の革命は時間稼ぎにすぎないと警告した。

彼の仕事で救われた命を10億人とする言い方は、生前からよく使われた。数え方はさまざまで、正確な数を出すことはできない。ただ、20世紀後半に世界の人口が倍以上に増えながら、多くの専門家が予言した大飢饉が南アジアで起きなかったことは事実である。

ブッシュ大統領から議会名誉黄金勲章を贈られるボーローグ(2007年7月17日)
ブッシュ大統領から議会名誉黄金勲章を贈られるボーローグ(2007年7月17日)Wikimedia Commons Public domain

批判もあった。化学肥料と農薬と大量の水に頼る農業は、土を疲れさせ、地下水を枯らし、川を汚す。同じ品種ばかりを植えれば、在来の品種の多様さが失われる。種と肥料を買える豊かな農家と買えない小農の差も広がった。ボーローグはこうした批判を知っていた。だが、恵まれた国の環境保護の論者の中には飢えを経験したことのない人が多い、自分が50年見てきた途上国の惨めさの中で、彼らが一か月でも暮らしてみればよい、と言い返している。

1980年代からは、緑の革命が届かなかったアフリカに力を注いだ。日本の財団の支援を受けて、70歳を過ぎてからアフリカ各地で農民と試験畑を作った。食料の分野のノーベル賞をめざした世界食糧賞の創設にも関わった。2009年9月12日、テキサス州ダラスの自宅で死んだ。95歳だった。

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